告知:からだは戦場だよ2017 とりかえしのつかないあそび

 

予告

 

Invitation

三年目のからだは戦場だよ。
テーマは「とりかえしのつかないあそび」です。

例えば、「天狗」(注:鼻がいたずらに長い点を除けば、人間であるとみなすことが許されるようなある種のカテゴリー)であるとはどういうことかを知るために、天狗に関する歴史的文献をまじまじと読むのでもなく、天狗のイラストを粛々とトレースするのでもなく、あるいは誂え向きの天狗のお面をふかぶかと被るのでもなく、、ダイレクトに天狗に変身できるのであれば、それが一番てっとりばやい。

絵本の中のお話なんかだと、そうした変身のカードは(たいていは無垢なこどもによって)何の躊躇もなく行使されるわけですが、しかし、もし現実にそんな機会(というか危機)が訪れようものならば、どうだろう。たとえ、それが(稀にいるかどうかもわからない)天狗への変身願望に取り憑かれた大人の身に起こったのだとしても、現実的な観点からすると、むしろ変身の後始末にこそ目を向けるべきであり、つまるところ、仮に変身できたとしてその後に滞りなく元の姿に戻ることができるのか否かについての十分な確認を怠るべきではない。ここでは、絵本的に約束された楽観的な結末を期待するのは単なる甘えとみなされるのです。

ある男が、『うらしま』と題された、天狗への変態のための呪術を扱う古文書を偶然発見するところから現実の物語は始まります。その男は鼻の低いことにコンプレックスを持っていたのかもしれない。その書に記されていた変身のための手順を忠実に実行すると、鼻はにょきにょきと立派に成長し、やがてその男は天狗の世界で新たな仲間として迎え入れられます。それから数ヶ月もの間、男天狗との友情やら女天狗とのロマンスなどのお約束に巻き込まれながらも、しかし(というか、やはりというか、今さらというか)突然に彼方に残してきた家族のことを思い出さずにはおれなくなり、強烈な望郷の念にかられてしまう。天狗との別れを惜しみ惜しまれつつも、やはり古文書の末尾にひっそりと記されていた秘伝の呪文を唱えることで、その男は無事にもとの鼻を取り戻し、家族に再び温かく迎え入れられました(とさ)。めでたしめでたし。

しかし、物語にはつづきがあります(現実の物語の中に挿入される終わりの切断面(<とさ>)はいつだって留保つきなのです)。確かに、顔の造形はもとに戻った。周囲の人間もこれまでと何一つ変わらないかたちで接してくれている。とりわけ、写真で判別するかぎりにおいて鼻の造形は変身前と何一つ変わらない。しかし本当のことを言うと何かが違う。否、それどころの話ではない。「本当のこと」なんて勿体ぶった表現を持ち出すまでもないし、「何かが違う」なんていう穏当な表現では全く足りない。事態はむしろ全く逆に振り切れているのだから。『写真で判別するかぎりにおいて鼻の造形は変身前と何一つ変わらないという一点を除いたありとあらゆる意味で鼻は依然として不恰好に長いままなのだから

彼は、その長い鼻を抱えたまま、あるいは、長い鼻を持っているという認識を孤独に抱えたまま、そして、あの古文書が『うらしま』と題されていたことの意味を時折かみしめながら、その後の半生を、(鼻の問題を除けば)特に大きな障害もなく過ごしました(とさ)。

閑話休題

大きなスクリーンがあれば大多数が一気に経験できる錯視のようなものと違って、<からだ>の錯覚は、各人の身体のまわりの、ごくごくパーソナルな空間の中で繰り広げられる相互作用の中からしか生まれません。ある人の<からだ>に直に響くような錯覚を届けるためには、その人のすぐそばまで、息遣いが聞こえてくるところまでぐっと寄っていかないといけない。あるいは、誰かが(どういう動機かは不明だけれど)いつもと違う<からだ>を手に入れようとするのであれば、その人自身が、その「からだのようなもの」のすぐ近くにまで出向いて、自分が占有している物理空間を生贄として差し出さなければならない。そうして、<からだ>の錯覚は、新しい容れ物とひきかえに「ひょっとすると、自分のもともとの身体を永久に失ってしまうかもしれない」という危険と隣り合わせの闘争の場となります。それは、人生で何度目かの幽体離脱に遭遇した人が、久しぶりに手に入れた時限付きの自由で胸を震わせる一方で、「今回こそは二度と自分の肉体に戻ってこれなくなるかもしれない」、そんな不安と闘うのと似ています。

小鷹研究室は、こうした(あらかじめ各自の認知機能にビルトインされた)呪術の仕様を科学的に探求する一方で、呪術の使い手としての作法を身につけることにも多大なる関心を寄せています。「からだは戦場だよ」は、その公開実験の場と考えています。控えめに言っても、こうした「とりかえしのつかない遊び」を(しかし)遊びとして、まとまったかたちで体験できる場所というのは、全国的にも、ビッカフェの「からだは戦場だよ」だけと思います。今年も、HMD(ヘッドマウントディスプレイ)・プロジェクションマッピングといった現代的なVR(バーチャル・リアリティ)関連のテクノロージー勢に対して、鏡・水という何の変哲もない自然物が思ってもみないかたちで応酬するという小鷹研らしいカオスな様相を呈しています。1年のうちのたった2日間です。ぜひ、生の反応を聞かせてください。お待ちしています。<(_ _)>

(こだか)

 

展示
からだは戦場だよ2017 とりかえしのつかない遊び
|会期| 2017年1月28日(土)12時 – 19時30分
2017年1月29日(日)12時 – 17時
|場所| やながせ倉庫・ビッカフェ
岐阜県岐阜市弥生町10 やながせ倉庫202
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|料金| ビッカフェにてワンオーダーお願いします。
関連イベント
出前講義 「虚構(遊び)が現実に転じるとき」(小鷹研理)
|日時| 2017年1月28日(土)17時 – 18時30分
(いつもより時間が早いです。お間違えなく)
|料金| 500円+ワンドリンク
出品者

石原由貴(博士後期課程)、森光洋(修士2年)、深井剛、宮川風花(学部4年)
小鷹研理(准教授)

企画

ビッカフェ(やながせ倉庫) FACEBOOK
小鷹研究室(名古屋市立大学芸術工学部情報環境デザイン学科) WEB

イラスト協力

もこうぼう WEB

一部助成

科学研究費「モーフィングに基づく非相似的な身体像の誘発に関する研究」WEB