ビデオレター草稿(第7回野島久雄賞受賞挨拶)

みなさま、こんにちは。
名古屋市立大学の小鷹と申します。

この度は、非常に名誉な賞をいただけるとのことで、光栄です。どうもありがとうございます。

今回、よりによってこの大事な授与式のタイミングで、どうしても外せない海外での展示の予定が入ってしまい、本来であれば、直接お礼の気持ちを伝えたかったのですが、思いが叶わず大変に残念であり、また申し訳ない気持ちです。まずは、推薦をいただいた、小野哲雄先生・岡田浩之先生、そして選考していただいた選考委員会の諸先生方に深く御礼を申し上げます。これまでいただいた賞の中で、間違いなく、一番嬉しいものとなりました。ありがとうございます。

今回、受賞に至った直接の業績は、僕の研究室の「からだの錯覚」に関わる一連の活動であると理解していますが、実は、2012年に新しく名古屋市立大学に自分の研究室を構えるまでは、今とは全く異なるテーマで、主に工学の分野で研究をすすめていました。「からだの錯覚」の研究をはじめるきっかけとなったのは、大学に赴任して一年目の授業準備の際に、はじめてラバーハンド・イリュージョンを体験したことです。このとき、文字通り、(天と地と、と言うよりも)自分と他人がひっくり返るくらいの衝撃を受けて、これは自分が生涯をかけて取り組むべきテーマであることを直感しました。あの衝撃からもう7年ほどになりますが、それからは、ありがたいことに、ずっと熱にうなされている状態が続いているといいますか、まさに「好きなことを好きなように研究している」風の、理想的な研究人生を謳歌できていると思います(お金では苦労することはありますが、それはまた別の話)。

あのタイミングで、ラバーハンド・イリュージョンと出会ったのは、偶然といえば偶然なのですが、僕自身の感覚では、普通に研究を続けていれば、遅かれ早かれ、どこかの時点でこの錯覚に出会い、そしてやはり圧倒され、今の研究テーマに落ち着いていたであろうことは、ある程度の自信を持って言うことができます。他方で、もし、そもそもラバーハンド・イリュージョンが世の中のどの文献にも発表されていなかったとしたら、、そのような並行世界を想定してみると、、それは全然ありうる話だと思うんですけれど、、その場合でもなお今のような研究テーマがあったかというと、それはかなり絶望的だったのではないかと思います。そして、そのようなもう一つの世界で、果たして、僕が今ほど楽しく研究できているだろうかと考えてみると、この点についても、やはり僕は確信を持ってイエスということができません。それほどまでに、今となっては、僕は、「からだの錯覚」以外を研究テーマとしている(別の可能世界の)自分のことをうまく想像することができないのです。いずれにせよ、僕には事後的に幸運と思えるような出会いがあった。それは事実です。

僕の研究室の活動のモチベーションは、一つには、僕たちが「からだの錯覚」から受けた衝撃を、他の人ともシェアしたい、端的に言えば、周りの人から「面白い」「なんだこれ」というような反応を引き出したい、そんな素朴なコミュニケーション欲求に支えられているところがあります。今回、「面白さ」を何よりも重視する野島久雄賞に選んでいただいたということについて、素直に受け取れば、研究室の活動を通して、僕たちが「からだの錯覚」から受けた衝撃的な面白さのうちの幾ばくかが外部に伝染していることだろうと、そのように感じており、その意味でも、今回の受賞はとても研究室冥利に尽きるものです。

本来であれば、ここで、今回受賞の対象となった研究をいくつか紹介するべきなのかもしれませんが、選考委員の先生方からの受賞理由にも挙げていただいているように、今回の受賞は、何か特定の研究業績を評価していていただいた、というよりも、認知科学・メディアアート・VR(バーチャル・リアリティ)の3つの領域に片足を突っ込みながら、分野横断的に行ってきた活動を評価していただいたものと理解しています。

小鷹研究室のこれまでの仕事、そして現在進行中の仕事の多くは、まず展示というオープンなフォーマットで発表して、その場で来場者から得られた(ときに予期せぬ)反応を、あらためて実験心理的な文脈で検証する、という流れをとっています。実際、最近、国際論文誌に発表した「影に引き寄せられる手」(金澤綾香との共著)も、「動くラマチャンドランミラーボックス」(石原由貴が主著)も、論文の中で設計された実験系は、精緻に関連文献を調べ上げてボトムアップに積み上げていった結果たどり着いたものではなく、まずは前段に、素朴に「こういうものをつくってみよう」という発想を展示というオープンな場で具現化するフェーズがあり、そこで体験の強度に関して、ある程度の確信を得たのちに、学術的に新規な要素を関連の論文リストから探っていく、、そうした流れのなかで、逆算的に設計されていったものです。

僕にとって、このようなサイクルは、自分自身が緊張感を持って研究をすすめていくうえで、ごくごく自然に選択されたものです。展示が基点にある、というのは、端的にいえば、学術性なり工学的有用性などを脇に置いて、何よりも、僕自身が、一人称的に「やばい」体験をすること、これこそが、研究の出発点となっているということです。そのうえで、僕にとって、学術研究の感動というのは、先人たちが洗練させてきた種々の概念装置を媒介させることで、プライペートな主観体験としての「かけがえのなさ」が、「みんな」の主観体験へと架橋されていく、その種のコミュニケーションの現場に立ち会うことにあります(そして、それは自分とは何者なのかを -それは、ときに、いかに自分が孤独であるかを-  よりよく知ることへと結実していくのです)。

身体所有感であったり、自己主体感、あるいは最近であれば「sense of self」「numbness」と呼ばれる様な感覚は、一昔前のサイエンスであれば、名状しがたいものとして退けられていたもののはずです。ありがたいことに、今の認知科学では、このような独りよがりな感覚を扱うだけの懐の深さを持ちつつあるように思います。そして、僕は、今後の研究の中で、これまでと変わらず一人称的な体験と深く向き合っていくなかで、認知科学というフォーマットがより柔らかなものへと変態していく、そのためのお手伝いができれば、と思っています。


それでは、おしゃべりはここら辺にしておいて、おそらくは、この会場では小鷹研のことを全く知らない方々が多くいらっしゃると思いますので、自己紹介も兼ねて、最近三年間の研究室展示「からだは戦場だよ」の予告映像を、古いものから順にご覧いただこうと思います。


ご覧いただきありがとうございます。

繰り返しますが、研究室の展示は、研究の一連の流れの入口にあたるものですが、たった今通して見ていただいた数々のアイデアのうち、学術論文へと結実したものは、まだ数えるほどしかありません。現時点で、重要な知見を含む未発表論文を多く抱えており、正直なところを申せば、ある意味では、多少歯がゆい状態での受賞でもあるのですが、今回の受賞を励みに、今後、圧倒的な成果を示して、認知科学の世界の中の「まっとう」な研究者として受け入れてもらえる様に努力します。

最後になりましたが、小鷹研究室の中で生まれる体験の熱気を、僕と一緒になって追い求めてくれた歴代の研究室の総勢27名の学生、とりわけ、これまでのほぼ全ての展示やイベントに、研究室創設当時から様々な立場で深く関わってきたくれた、石原由貴と森光洋に対しては、特に名前をあげて、その多大な貢献に感謝の意を伝えたいと思います。彼らがいなければ、今の小鷹研はあり得ませんでした。

なお、今まさに、来週に迫ったアルスエレクトロニカのキャンパス展で発表する新作インスタレーションを仕上げている最中です。最後に、その新作と関係する映像の一部をみなさんにご覧いただき、お別れとしたいと思います。

どうも、ありがとうございました。

今年は論文を書くよ

早いものでもう2019年。今の大学に赴任してきたのが2012年の4月。その年の前期の授業準備で初めてラバーハンドイリュージョンとの邂逅を果たし、からだの錯覚をテーマとする研究室展示「からだは戦場だよ」を初めて開催したのが2014年の1月。それから5年間、セルフタッチ、ラバーハンドポインタ、伸びる指、影の手、布の手、紙の手、指の屈折、伸びる腕、動くラマチャンドランミラーボックス、幽体離脱、重力反転、頭部着脱感覚、、、小鷹研の歩みは戦場とともにあった。その5年目の戦場Δが、先日12月22・23日に、これ以上望むべくもない盛況で幕を閉じ、そして既にいたるところで公言しているように、僕はこれをもって戦場(という名のプロジェクト)を閉じようと思っている。これ以上望むべくもない幕引き。

2019年元旦・岡崎龍城神社にて

僕は、(とりわけここ数年の)戦場において一切の妥協をしなかった。戦場において出品された装置は、どれも僕自身の主観に照らして一定の基準を満たしている。その基準とは、装置がつくりだす体験において、僕自身が新しい風景の中に否応無く取り込まれていくこと、しかもその中で「ぐぐぐとくる」瞬間に立ち会うこと、、この二点に尽きる。そして、そのような新種の体験は、戦場に出品した学生の数だけ、一年おきに更新されていった。この僕自身の設定した基準なるものは、決して独りよがりのものではない。実際、岐阜の小さなギャラリーで発表されたそれらの小さなアイデアが、その後、国内外の名誉ある舞台への展示(Siggraph Asia 2017, 2018、VR Creative Award 2018)や受賞(Unity Award in EC 2017)へと回収されていったことは、研究室の大きな誇りである。

ただし、そのようなかたちで(幸運にも)回収されていったものは、あくまでも僕たちが生み出してきたものの部分集合に過ぎない。戦場に出品した四年生のほとんどは、学部を卒業すると、卒業研究に取り組むよりも前に既に内定していた企業へと進む。彼らのすすめていたプロジェクトのほとんどは、誰にも引き継がれることがない。そうして、今や研究室は、回収しきれないほどに、多くの研究のタネを抱えている。だから、僕は、ここらでこの供給過剰?なサイクルから一旦抜け出て、いちアカデミシャンとして、実験心理学の言語で、僕たちがこれまで扱ってきたものの新しい風景の内実をじっくりと語り直したいと思う。来年は、幸い?四年生の数が少ないうえに、新しい大学院生が1人(+α)入ってくる。いつになく研究モードに転じて、心理実験の時間を多くとって学術論文を量産したい。

そう。
年始の抱負は「論文を書く」。
これに尽きる。

年始なので2018年の主な研究室の出来事を少しばかり振り返ってみる。

01月 「からだは戦場だよ2018 人間は考えヌ頭部である」開催
03月 古谷利裕氏の論考『「幽体離脱の芸術論」への助走』で小鷹研への言及!!
06月 人工知能学会のOSで招待講演!!
06月 VRトークイベント(没入の宴)への参加
06月 「動くラマチャンドランミラーボックス」の論文発表、名古屋テレビ、中日新聞
07月 美術手帖WEBにReview(小林椋『ローのためのパス』)を寄稿!!
08月 「Elastic Arm Illusion」がVR Creative Award 2018でファイナリストとして展示
08月 認知科学会のOSで三件の発表(重力反転、動くラマミラ、蟹の錯覚)
09月 メディアアート展示『拡張する知覚』に二点の新作を出品(10年ぶりの制作)
11月 朝日新聞の先端人で記事に!!
12月 Siggraph Asia 2018で「Self-umbrelling」を出展
12月 「からだは戦場だよ2018Δ ボディジェクト思考法」開催

以下は小鷹研の活動に言及のある報道関係の主なリンク

[中日新聞ニュース]|鏡の左手、脳では右手?動かさなくても「動いた」錯覚 名市大が実験
[名古屋テレビ]|固定された手、動かしたように錯覚 名市大大学院が鏡を使った研究結果を発表
[週間アスキー]|選りすぐりのVRコンテンツが多数集結、「VRクリエイティブアワード2018」レポート
[朝日新聞 DIGITAL]|体の錯覚、科学で作る(先端人)
[VRon WEBMEDIA]|SIGGRAPH Asia 2018 TOKYOレポート7(「VR / AR」その3)
[Mogura VR]|嗅覚や身体感覚に訴える展示多数、アイディア満載のSIGGRAPH Asia 2018 体験ブースレポ
[美術手帖WEB]|からだは戦場だよ2018Δ(デルタ)(やながせ倉庫・ビッカフェギャラリー|岐阜)|EXHIBITIONS
[朝日新聞夕刊]|ぞわぞわする錯覚体験 岐阜装置8点を展示

いやぁ、どう考えても働きすぎだろ。
来年は引きこもって研究だ!!

『からだは戦場だよ2018Δ』趣旨文

5年目の「からだは戦場だよ」を12月22・23日に(まずは)開催する。展示名を「からだは戦場だよ2018Δ(デルタ)」、副題を「ボディジェクト思考法」として。

からだは戦場だよ2018Δ 予告篇(小鷹研究室)

まずはΔが含意しているものについて。
今年の1月に既に『からだは戦場だよ2018』を開催している以上、同じ展示名を使うことはできない。そして、Δは12月開催のDecemberの頭文字にかかる。そうした事情は、一応のところ事実に即している。他方で、僕がΔで強調したい部分は別にある。仮に今回も例年通り年が明けて1月開催であったとして、それでもなお今回の展示の冠には「2018Δ」という表記を与えることがふさわしい、僕にはそのような感触がある。その理由は、僕が『からだは戦場だよ』を今回でクローズしたいこととも深く関係している。

『からだは戦場だよ』は、その開催の度に、新しい風景を貪欲に開拓していった。それらの軌跡を辿るには、2014年以降の展示の副題を眺めてみることが助けになる。

「からだは戦場だよ(2014)」
「バードウォッチャー・ウォッチング(2015)」
「とりかえしのつかないあそび(2016)」
「人間は考えヌ頭部である(2017)」

小鷹研究室は、『からだは戦場だよ』という名の基調的な囲いの中にあって、その都度、危険なモチーフを新たに見出し、『戦場』の同一性を根拠づける審級へとドラスティックに介入してきた。『戦場』に漂う独特な切迫感の背後には、そのような<とりかえしのつかない>実験精神が伏流している。一方で、僕は、『戦場』がこれまでに担ってきた実験精神を、今回も同じようなかたちで発動することができなかった。端的にいって、前回の戦場「人間は考えヌ頭部である」の時点で、研究室にとって重要な論点は、十分に出尽くされていた。そして、それはなんら、ネガティブなことではない。あまりに深遠な問題系の門をついに潜ってしまったこの段階で、拙速な流動性に身を任せて、一度設定した問題を十分に咀嚼できていないままに、兎にも角にも胃袋の中に流し込んでしまうような粗雑な振る舞いは慎むべきである。だから、今年の戦場の問いは、「からだは戦場だよ2018」から地続き(Δ)な地点にあることを、この際、明確にしておきたい。そして、それゆえに、今回の戦場は、小鷹研究室の濃密な第1期の終結宣言でもあるわけだ。

今年のテーマ「ボディジェクト思考法」が「人間は考えヌ頭部である」から地続きな地点にあるとは、どういうことか。実は、今年の戦場は、随所に「人間は考えヌ頭部である」で提起されたモチーフが再演されている。「視点的自己」はそれ自体として独立に成立しているようにみえて、「自己」を意識の上で結晶化しようとした瞬間に「身体的自己」がその内部に召喚される。「人間は考えヌ頭部である」はその種の<不自由さ>の問題を主題としていた。他方で、意識は隙あらばそうした不都合な事実から目を逸らし、空想的な自己を演じようとする。そのようなかたちで、視点とオブジェクトとしての身体の間で終わりのないいたちごっこが展開される。この過程で、完全に「無」に記すことのできないオブジェクトの、しかし極小化された形態として、我々は<頭部>というモチーフを見出した。したがって、この<頭部>なるものは、「自分」の中に宿る<自由にならないもの>の象徴なのだ。

この<頭部>は、運動感覚(に伴う頭部の回転)と同期的に動作することで自己感を召喚し「body」として振る舞うとともに、放物線を描きながら床に放り出されることで「object」としての本性を露わにする。このような身体に本性的に組み込まれているはずの「body」と「object」の二面性に対して、我々は最近になって「bodiject」という名を与えた。本展で、我々は、身体を「bodiject」として眺めるための方法を、ありとあらゆる角度から提供しようと思う。そして、そのような意味で、本展のテーマ設定である「ボディジェクト思考法」は、「人間は考えヌ頭部である」の含意を身体全体に一般化したものであるにすぎない。そして、本展においても<頭部>は依然として (いや以前に増してより)重要な場所なのである。


さて、初日(12月22日17時〜)は、画家で評論家の古谷利裕さんと、アーティストの金井学氏をゲストとしてお呼びする。お二人は、芸術が芸術であるとはいかなる事態を指すのか、作品が作品足り得るために、作品は現実に対してどのような関係を結ぶべきか、そのような芸術のトートロジーに関わる根源的な問題を、様々なテキストおよび具体的な制作実践を通して深く思索してきた賢人である。僕自身といえば、芸術表現や批評の世界の中で流通している諸概念に対してすっと腑に落ちるような手応えを感じることができないままにこれまで年を重ねてきたようなところがある。さらにいえば、そもそも僕は、美術に関わる一般的な教養を圧倒的に欠いている。だから「芸術に対する感受性」のような計量可能な指標があったとして、僕は、僕自身のそれをかなり低く見積もっていた。他方で、ここ数年、古谷氏のテキストや、旧友である金井学との度重なる対話の中で、どうやら『からだは戦場だよ』でこれまで展開してきた実践と、彼らの考える芸術論はそれほど遠く離れていないのではないのかもしれない、そのような手応えを得るようになった。もっと言えば、僕が「からだの錯覚」の実践を通して追求してきた、<自分>が根底から揺さぶられるようなvividな体験を、彼らは(例えば)絵画を通して享受しているのかもしれない。「からだの錯覚」は、現実の背後で鎮座する身体を身体たらしめている生々しい場所(物質的界面)へと介入し、身体を括弧つきの身体へと退行させる。bodijectというのは、例えばそのような位相のことである。そして、言われてみれば当たり前のことかもしれないが、やはり、芸術も、その本性は、潜在的領域に働きかけることで、顕在的領域であるところの現実を組み替えていること、あるいはその予感を与えることにある。

例えば、古谷氏は「幽体離脱の芸術論のための助走(ÉKRITS)」において、

「セザンヌやキュビズム、マティス、あるいはマネなどの絵画がやっていたことは、図(対象)を描くこと(その描き方)によってその潜在的背景となる地(場や文脈)を分裂させ、地の存在を意識させることでした。あるいは、絵画空間を歪ませることで、決して顕在化することのない「地の分裂」を暗示させるということだったのです。」

と、このように書いている。

あるいは、金井学の東京藝術大学の博士論文『芸術を為すことを巡って 世界の記述形式ーそのトランスダクティブな生成について』は、論文審査において、以下のように評価されている。

「「作品」として顕在化するものが、単独的な出来事性を帯びて出現しながら、同時にその作品を可能にしている世界の潜在的な諸力との関係を露わにするような「個体」となることを彼自身の創作の基礎におくと結論づける。(中略)芸術の自律性を、還元主義的かつ自己完結的な方向に展開するのではなく、それをとりまく諸力の均衡状態であり、生成変化し続けるプロセス(つまり、トランスダクション)として捉え直す理論的見通しをつけた主張は、高い評価に値する。」

ここで語られているのは、「絵画における図」なり、いま・ここに前景化している「世界」なりが、ある特定の場に置かれ相互作用に晒されることによって、そのような<見え>を基礎付けていた「諸力の均衡状態」に歪みが生じ、裂け目が生まれ、ある時点での<見え>が相対化されていくことである。『からだは戦場だよ』は、特定の手続きを通じて、「身体」を基礎付けている調和的なオーケストラの場へと潜入することで、「身体」を、およびそれに紐づけられた<自分>を、括弧付きの身体・自分へと組み替えていくことを主題としてきた。そして、これらは、扱うメディアは違えど、ほとんど<同じ作用>のことについて言及してはいないか。

ここで僕は、あえて「相対化」という言葉を使った。「相対化」にせよ「多様性」にせよ、それらはかつて、マイノリティーへの共感を喚起する政治の言葉として、使い勝手よく流通してきた。他方で、2018年現在の地点に生きる僕たちは、これらの言葉が孕む<嘘>をよく知っている。過度の相対化・多様化は、かえって、より強力な絶対性への信仰に転じてしまう。そのような逆説は、現在進行中の史実である。作品が、現実を相対化する作用を持つのだとして、相対化は、必ずしも現実を組み替え、複数のものたちが拮抗して現実を主張し合うような風景へと結実しない。テクノロジーによって、現実を編集するためのコストが限りなく取り払われた今、異なる現実を呈示しとにもかくにも「作品のようなもの」を呈示してみせることに対する敷居はますます低くなっている。このような状況下で、「相対化」が実際に現実を組み替えるための基礎的な条件についてより深い考察が必要である。よい「相対化」と悪い「相対化」を考えるための道具立てを揃えること、しかし否定神学的な隘路に陥ることなく。以上の命題は、僕にとっては、芸術の問題というよりも、僕自身の研究分野であるVRや認知心理学における、性質の良い「自己の投射」を設えるための実際的・技術的問題として浮上していた、というのが本当の話である。そして、僕にとって、この種の問題を解くために「幽体離脱」の問題系が浮上するのはアカデミックな意味においても、直感的にも必然的な帰結なのである。ここでいう直感には、「幽体離脱」こそが<自分>を組み変えるだけの強度を潜在的に有している投射の形態である、という確信が含まれる(性質の良い投射は必ずしもコントローラブルとは限らない)。そして、以上の意味において「幽体離脱」は芸術の問題でもあると同時に、小鷹研究室がこれまで生み落としてきた幽体離脱VR(「Recursive Function Space」、「Self-umbrelling」、「重力反転大車輪計画」)にも、芸術の萌芽が含まれている。少なくとも、僕は古谷氏がフォーマリズムによる芸術論の再構築の準備をする論考を何度か読み返しながら、そのようなことを想像している。

あらためて、今回、二人のスペシャルなゲストをお呼びすることができて本当に嬉しく思っている。僕としては(少し言い訳がましいが、このトークセッションに向けて、自身の芸術の教養を一からやり直すことなどは残念ながら全く叶うことなく)展示の本体において<例年と遜色のない>不穏な体験を今年の戦場でも送り出すことにひたすら注力してきた。というか、僕のような人間に求められている役割は無論そっちであって、お二人の芸術論に花を咲かせるための良き触媒となることこそが重要なのだ。そして、個人的には、今回の新作の体験の質には、ものすごく満足している。だから、僕の役割はもう9割型、終えた気でいる。当日は、お二人にそれぞれ30分程度話してもらった後で、三人でディスカッションという流れであるが、細かいことは何も決めていない。司会的な役回りは安心と信頼の金井くんにお願いしてる。楽しくも刺激的な時間になるだろう。

siggraph asia 2018(2018.12.5-7)への参加

森光洋くんとsiggraph asia 2018(東京国際フォーラム)で展示してきました(2日目から、来年大学院に入る岡田くんも参加)。去年のバンコクに引き続き、2年連続の参加。

出展したプログラムは「VR/AR」。今年の応募状況は81件中20件の採択だというので、今年もなかなかの難関をくぐり抜けての名誉ある舞台です。

出展のかなったVR装置『self-umbrelling』(論文)は、傘をバサバサやることで幽体離脱みたいな感覚を体感するもので、もともとは今年の1月の「からだは戦場だよ2018」で初めて発表したものでした。ここ2年、「からだは戦場だよ」で発表したやつが、その年度内に、大きな舞台で公開されるという流れが続いており、思い入れのあるこの作品もその流れに乗ることができて本当に嬉しい。

一般的な国内会議のデモはだいたい2時間とか3時間で終わるところが、siggraph asiaでは、3日間、それも朝10時から夕方6時(最終日は4時)までぶっ通しで展示。それだけ多くの体験者と触れ合う機会が得られる反面、、、とにかく疲労困憊になる。初日はシステムのトラブルに加え、英語の15分のトークもあったので、ホテルに戻った時には身体がグダグダになっていた。

ただ、今年も3日間の展示を振り返って思うのは、siggraph asiaが、このレベルの労力を差し引いてもあまりある、極めて特別な場所だと言うこと。個々の出展物のレベルが高いことや展示空間の規模とかのロイヤリティーの側面はもちろんだけど、僕が今回すごく「よいな」と思ったのが、今年『self-umbrelling』を体験してくれた人たちの中で、去年のバンコクでの僕たちの展示(Stretchar(m)、Recursive Function Space)を体験していた人がかなりの数いたこと(ほとんどが外国の人)。去年のやつが面白かったからとまた来てくれた人とか、体験中に僕のアバターを見て思い出してゲラゲラ笑い出す人とか、とにかく何人もの人が去年の展示のことを覚えていて、少し苦笑気味に「お前たち去年もみたぞ。またこんなあやしいやつもってきたのか」みたいな感じで、話しかけてきてくれた。学生ボランティアも、2年連続で来ている子を数多く見かけた。この会議には、一度来たらまた次も来たくなるような、なんともいえない居心地のよさがあるのかもしれない。僕自身、たったの2年で、この会議に対してものすごい親近感を覚えてしまっていて、そんな自分に驚いている。

関連して、今回すごくうれしかったのは、こういう展示会の場で、<明確な意図>を持って「小鷹研」の展示を体験しに来る人が確実に増えていること(去年の体験者だけじゃなくて、VR系で有名なラボの学生とか、記者なんかも多い)。人口数人の小国、小鷹研の世界観がじわじわと人々の間に浸透しはじめているのを感じている。<じわりじわり>というのが大事。小鷹研は、大国に上り詰めることにはあまり関心を持っていないわけですが、ただ大国に不安を供給するそんな触媒でありたいとは思ってる。その意味で、まだまだみんな能天気にVR技術と戯れている。<自分>をますます肥大化させるためにVRを使っている。小鷹研による<じわりじわり>の歩みはまだ序の序の序。


以下は、本展示用に作った研究室のポストカード。結構気に入っている。


いつものことですが、展示のなかで体験者の多様なリアクション(体験中も体験後も)に触れることができたのは非常に有意義なものだった。毎度のことながら、外国の方が体験している時に「weird」(不気味)て言葉を拾えると、内心「よっしゃ」ってなる。『self-umbrelling』は、体験中の説明がとても大事で(重力反転という事態を当人に自覚させることで、途端に面白さが増す)、説明に慣れて来た2、3日目で、の体験者の反応はすこぶる良くなっていた。実は、siggraph系の会議に、こんな渋いやつ持って来て大丈夫かなぁ、っていう気持ちが少なからずあったんだけど、3日間の展示が終わった今となっては、自信を持って『self-umbrelling』を小鷹研の「代表作」と位置づけることができる。やっぱ、これ、すごくおもしろい。

以下は、twitterで拾えた反応。

「ゴリゴリのテクノロジーで殴るというより認知心理学的なアプローチが興味深かった!」という感想は非常に重要なポイントで、というのも、周りの傾向を見回してみれば、Siggraph系の会議がテクノロジーの先端性とCG表現のクオリティーの高さを重視していることは火を見るよりも明らかであり、その意味で、技術的な新規性を一切かえりみることのない小鷹研の展示物が2年連続で選ばれると言うのは(CGに関しては、今回も森光洋の技術力に全てを負っています)、端的に言って、本当によくわからないことなのだ。ただ、Program Comitteeのchairが僕たちの研究の姿勢に対する強い関心をわざわざ表明しにきたり、別の委員の方も査読で高評価だった(けれどrejctされた)「immigrant head」はアクセプトされるべきだったと言ってきたりで、小鷹研の独特な立ち位置が委員会のレベルでも静かに共有されている様子がなんとなしに伝わってきた。こうした状況について、すごく不思議な気持ちであると同時に、この方向でやっていくことに対してすごく自信を持つことができている。

来年はブリスベン。大好きな街だー。がんばろう。

p.s.
今回の『self-umbrelling』(Siggraph Asia 2018 Ver.)は、2019年1月12日にビッカフェ(からだは戦場だよ2018Δ)で体験することができます。

2018年度、怒涛の小鷹研(6月〜9月)

備忘も兼ねて、2018年の中盤、小鷹研が颯爽と駆け抜けていったいくつかの活動をまとめて記録しときます。というか、最近の怒涛の研究室関連の活動の全てをスルーしてしまったら、研究室ブログの存在意義などゼロに等しくなるわけです。これはまずい。


屋久島

6月初旬は、人工知能学会でOSの招待講演(発表はちょっと詰め込みすぎですべり気味、、)から家族で屋久島旅行へ。それから6月24日には、名古屋のGOLDEN ARTS CAMPで行われたVRイベント『没入の宴』でトーク(これはすごく反応良かった)。それぞれ30〜40分の長めのトークで、どちらも幽体離脱関連の話を中心にした。

この歳になって、ようやく、「人に呼ばれてしゃべる」という事態に対して、肩肘張ることなく楽しめるようになってきた。「いま、自分が、一番関心を持っていること」を話している時の時間は、飲み会でラフにしゃべっているときみたいにあっという間に過ぎていくし、そのような前のめりの感じの時は、お客さんとの共感の場もつくりやすくなる。これは、授業についても言えることで、だから、「何かに強力に魅せられている」という状態に自分を常にキーブすること、そのような環境を整えること(養老孟司風に言うと「手入れの思想」)こそが、長い時間しゃべるような場を楽しむことの一番の近道だろうと思う。いずれにせよ、自分で研究室を持ってからは、局所的なスランプを随所に挟みつつも、総体的に見れば、ずっと<異様なテンション>を保ち続けることができている。


それで、『没入の宴』が終わって、すぐ、博士課程の石原由貴の「動くラマチャンドランミラーボックス」研究が、国際論文誌i-Perceptionに採択(6月24日)。その内容を同日付でプレスリリースしたところで、いくつかの取材を受けることになり、中日新聞(6月26日)と名古屋テレビ(6月25日)で、それぞれ実験の成果を取り上げていただいた。

めーてれ

この研究は、MVF(ミラー・ビジュアル・フィードバック)の運動錯覚において、鏡像が独立に果たしている影響を初めて抽出したもので、学術的にMVF研究を大きく前進させるものだと自負している。そして、実際、査読者も僕たちが主張する新規性を認めたうえで、改訂論文に対して、その主張を補完すべく、その線でありがたくも厳しい手厚い修正を求めてきた。で、石原さんは、その要求に対して、追加実験による検証で見事に応えたのでした。僕個人としても、論文査読から採択決定に至るまで、ここまで見応えのあるプロセスを踏んだのは、本当に久しぶりで、すごく楽しかった。石原さんは、社会人博士なので(週に二回大学に来てる)、5年で卒業の算段なんですが、三年目にしてようやくこの大きな一本が通り、それで実を言うと既に二本目も投稿済みだったりする。極めて順調。

さて、少し話はずれますが。取材というやつは、本当に難しい。長いこと時間かけて対応したものが、なんのエクスキュースもなく掲載されないのも気分が悪いけれど、世に出てしまったならばそれはそれで、いろいろと悩みのタネを抱えることになる。学術的に重要な点と、新聞・テレビが取り出したいキラーフレーズは、相容れないことがほとんどだ。今回のプレスリリースに関して言うと、確かに今回の研究成果は、ミラーセラピーの設計において、重要な基礎的知見を与えるものになると思う。ただ、論文では、そのような応用への道筋の問題については、ほとんど主題化されていない。いずれにせよ、個人的には、まずなによりも、「<明らかに動いていない>手が、しかし<明らかに動いている>と感じられること」、そのことに伴う主観的な軋みを味わい尽くしてほしいし、報道には、それを臨場感を持って伝えてほしい。その土台のうえで、応用について考えをめぐらせること。それこそが、現代的な意味での(神経科学的リアリティーに関わる)啓蒙だと思うんだよな。

さて、中日新聞ではいきなり

「脳が得る情報は、手の感触より視覚の方が大きいことが分かった。」

中日新聞

なんていう度肝を抜くような小鷹のコメント紹介されており、文字通り度肝を抜かれたわけですが、もちろん小鷹はそんな雑な話をするわけがないのです。今回の実験だけで<脳が得る情報>の全てを扱うことになるわけがないし、仮にこれが「運動錯覚」の話をしているのだとしたら、今回の実験でも示されている通り、ある方向へと直進的に移動する手の運動感覚を打ち消すためには、その3倍以上で、逆方向に動く(偽の)鏡像が必要となるので、運動錯覚を構成するうえでは、視覚よりも、proprioception(筋骨格系)に対する信頼性の方が(当然)圧倒的に大きい。上の文章は「脳が得る情報」が何を指すかわからない点で、結局、間違っているか間違っていないかも同定できない意地の悪い悪文なわけですが、それが僕自身の口からついて出ていることになっているわけで、これを最初に見たときは相当ショックだったし、積極的に知人に伝える気にもならなかった。一方で、科学の報道なんてもんは、こんなものだということはよくよくわかっているし、こんなことでやり合って、僕の貴重な時間のリソースを削ることほど馬鹿げたことはない。ということで、もう、この件は忘れた(その他の点については、比較的よくまとめていただいています。ありがとうございます)。

いずれにせよ、一般向けの正確な情報は、小鷹が直接書いたプレスリリースに尽くされています。

https://research-er.jp/articles/view/71890


そのあと、7月は、なんといっても、美術手帖WebのReviewを初めて書かせてもらうという事件があった。(もちろん、この間、ず〜っと授業をやってることをお忘れなく。今年は特にいっぱいやった。)

BT

そもそもの依頼のきっかけは、今年の春休みの少し手の空いたときに立ち上げたはてなブログ「ことばの錯覚」で、谷口暁彦さんの展示のReviewを勝手に書いていたのが編集者の目に止まったことにある。プライベートなところで真剣に書いた文章が、気まぐれな風に揺られながら運良くどこかに着床することのできた綿毛のように、偶然の網をかいくぐりながら誰かの心に届いて、そうして公的なところからアプローチがある、というのは僕にとって極めて理想的な仕事の<届き方>なのであって(これとは正反対に、全方位的に投げつけたものがたまたま僕の顔面に命中してしまったかのようなクソみたいな仕事の依頼も山ほどあるが、そういうものは腹立たしいので返信すらしない)、だからすごく気概を持ってこの(僕にとって)目新しい仕事にのぞむことができた。

実を言うと、展示の対象が最終的に決定するまでにいろいろと紆余曲折があったわけですが(それは内緒)、いずれにせよ、結果として、同時代のシーンおよび作家について網羅的な知識を持っているわけではない僕が、それでも近年自信を持って面白いと断言できる数少ない作家の一人である小林椋さんの展示のレビューを書けることになったのは本当にラッキーだったとしかいいようがない。いい展示では、論点は、勝手に向こう側から降ってくる。限られた字数の中でstoryに一貫性を持たせていこうとするその過程で、作品について、僕自身が、よりよく理解するようになる。あるいは、理解した気になる。あれを書いていた一週間足らずの時間は、強烈に濃密な時間だった。また、いずれ、やりたい。

https://bijutsutecho.com/magazine/review/18103


8月には、僕の研究室で修士号をとった研究生の森光洋くんとすすめている、HMDを使って腕が伸び縮みする体験を与える「Elastic Arm Illusion」が、VR Creative AwardのFinalistに選ばれた。で、急遽、24・25日と、森くんと四年生二人(岡田くん、安楽くん)を連れて、渋谷のEdgeOfというところへVive一式を持ち込みデモをしてきた。Finalist(12組)からさらに遡って、一次審査通過組(35組かな?)のリストをご覧になればわかる通り、ハイパーごりごりの産業寄りのラインナップの中で、うちの研究室がやっているような錯覚体験指向の作品を、一つポツンと選んでもらったことに大きな価値があると思ってる。3年前に、曽我部さんの卒業研究で、物理的に観測される自重変化と映像空間における身体の伸縮イメージを連関させる手法を見つけてから、少しずつバリエーションを増やしながら各所で発表を積み重ねていったことで周囲の認知度が上がってきたことの成果だと思ってる(だって、体験型だもんで、やらなきゃわからんし)。

「高いところから恐縮です」

お客さんの反応は(1月の戦場の時と同様に)抜群だったんだけど、残念ながら結果には結びつかず。12組中7組が何かしらの賞をもらってるんだから、正直、呪詛の一つや二つも吐きたくなる気持ちがないわけでもないけれど、イベントとしてはすごく完成されていて、展示スペースの雰囲気は(一般的な学会会場と違って)さすがに洗練されており、お客さんの関心もとても高いし、何よりも有名人が多いので学生のテンションも自然と上がるわけで、素直に研究室としてまたここに来たいと思わせる祝祭的な空間だった。

以下は、moguraVRの記者の方による当日のイベントの総括記事。elastic arm illusionについても、比較的大きめに取り上げてくれていて嬉しい。

https://weekly.ascii.jp/elem/000/000/418/418613/


で、渋谷から帰ってきて、すぐにJCSS(認知科学会全国大会、立命館)ヘ。佐藤優太郎くんは蟹の錯覚の口頭発表。石原由貴さんが、動くラマチャンドランミラーボックスの新しい実験のポスター発表。僕が、主観的な重力反転に関する口頭発表。僕と佐藤くんの発表は、OS(オーガナイズド・セッション:プロジェクション・サイエンスの深化と融合)として一般に公募された(招待講演を除く)5件の発表のうちの二つとして選ばれている(そういえば、今回のOSに関しては、他の発表もかなりレベルが高かった)。

佐藤くんの学会デビューを含め、三人の発表とも無事に済んだのちに、OSのメンバーと懇親会へ。このとき一緒に飲んだメンバーのうち三人(鈴木宏昭先生、嶋田先生、米田先生、、)とは、6月のJSAI(鹿児島)でも一緒に飲んでいて、僕自身、このコミュニティーの中の先生たちとようやく打ち解けてきた一方で、この先生方は、ここ数年の認知科学会で極めて重要な役割を果たしている方々であることもようやく理解し始めてきており、そのような正統的なところで仕事を積み重ねて来た人たちが、異端でしかない僕の研究室の仕事に関心を示してくれているのは、非常に自信になる(いや、鈴木先生なんかは、実際のところ異端感丸出しですが、)。

小鷹研がこれまでに生み出してきた、現象レベルに響く数々の怪しげな体験装置の土台には、知覚における認知神経科学的な説明原理に対する強い信頼があるわけで、この点でブレないことが、<小鷹研的>としか言いようのない拮抗したバランスを維持していくうえで、非常に本質的なわけです。僕は、工学的な説明原理だけで何かを発表するということに、全くモチベーションを感じないし、そんなことは恥ずべきことだとすら思っている。研究室を立ち上げて5年程が立って、ようやく認知科学系の学会の中で小鷹研的な仕事を拾い上げてくれる場ができてきたというのは、(全く期待していなかったわけだけど)結構大きな出来事なのかもしれない、と思っている。

まずはこれから1ヶ月、2ヶ月で、今回の発表でもかなり好評だった、重力反転の実験をはやくやり直して、トップジャーナルに送り込みたい。


JCSSから帰って来てすぐ、9月15日から愛知県芸で開催される、映像学会のメディアアートの展示『拡張する知覚』のための作品を個人で出品するための準備にとりかかる。

実質、制作期間は一週間程。

何か勝算があったわけではないが、IAMASを卒業して以降、アートの領域で、10年間以上も何も発表してこなかったわけだ。僕の無意識には膨大な数の引き出しが手つかずのまま眠っていることだろう。根拠はないけど、なんかおもしろいものが作れる気がした。とにかく時間がないので、ひたすら手を動かしていくなかで、「ボディジェクト指向」と「公認候補」という二つの作品ができた。

「公認候補」は、ここ数年の(もう終わったとすら言われている)ポスト・インターネットに対する関心がモロに出たもの。もちろんモチーフの違いに僕個人の趣向性みたいなものが表出しているのだろう。いずれにせよ、自分が過去数年の間で意識的に吸収して醸成されてきたポストインターネット的な関心フレームの範疇で幅を利かせている、比較的明確な世界イメージの中の一つをある程度正確に切り出していくような制作プロセスだったような気がする。このある種、近年のメディアアート「ぽい」ものを一つ、自分の身体を通して出力してみることは、僕自身が先に進むために、何としても必要なことだった。

公認候補1

公認候補2

さて、問題は無論、「ボディジェクト指向」の方である。

bodiject-oriented

この映像インスタレーションは、展示でも(そしてtwitterでも)、多くの人に強い印象を与えることになったが、これを世界で一番最初に体験したのはまぎれもなく制作者である僕自身なのであり、その得体の知れないものと最初に遭遇した時の強烈な変な感じは、まだ、頭の中のどこかにトラウマみたいに残っている。両面の鏡で仕切られた映像の一方の半面で三本の指を動かす、という基本的なアイデアを得たのちに、もう一方の半面をどうするかについては、多少の思案が必要だったが、半ば対称的なかたちで三本の棒状の野菜を並べる、というアイデアに至った時に、これは我ながらとてつもない快作を生み出すことになるぞ、という実感を得た。斜め向こうから突然に得体の知れないものが降ってきて、自分があらかじめ設定していた制作の評価基準の指標性そのものが無効化してしまうような感覚。これぞ制作の醍醐味。この大学に来てから、自分自身はろくに作品作ってないくせに、学生の作品に「つまらない」「つまらない」を(口に出すか出さないかは別にして)連発してきて、さて自分自身が作る段になって「つまらない」ものしか出てこなかったらどうしようという一抹の不安もなきにしもあらずだったんだけど、いままで見てきたうちの学生のあらゆる作品にも増して変な作品を38のおっさんが作ることができたので、これからもためらわずつまらないものに対してはつまらないといい続けたいと思う。


(180923中日新聞朝刊なごや東版13面)

さて、少し真面目な話。
ぼくは制作過程において、その制作(されつつあるある)物によって、制作者自身が変容するような体験の生まれる余地がなければ、(いくら思った通りのものができたのだとして)その結果生まれた制作物が<鑑賞者>の気持ちを深いところで揺り動かすことは難しいんじゃないかと思ってる。そして、これは、一人の人間が何かを辛抱強く作り続けること、そのようにして(自称)作家という営みを長きにわたって続けていくうえでも極めてクリティカルな条件なのでもあると思う。僕はIAMASを卒業して、ロボットの研究をやっているときも、プライベートで実験映像の制作を作っていたりしたけれど、途中で何かが決定的に枯渇するのを感じて、制作者であることから降りた。僕みたいに、何か特定の社会的な動機に触発されて制作するのではない人間にとって、この<空っぽ>感の感知は、制作における死刑宣告に近い。それから10年ほどの時間を経て、また何か制作のための動機を得たのは、僕がその間、何かしら善行を積み重ねていったとか(仮にそんな美談があったとして)決定的な不幸に見舞われたとか、そういうパーソナルな(あるいはNHKプロフェッショナル的な、とってつけたような質の悪い)ストーリーを吟味してみる手前で、まず何よりも、<10年という歳月が経過した>という、身も蓋もない物理的事実が先行している。意識的に何かを考えようがぼーっとしていようが、不可避的に変遷していく時代の空気の中で、無意識は自らの風景にそのままでは上手く染まらない種々の多国籍なイメージを取り込み、新しいものと旧いもの、あるいは新しいもの同士を付き合わせて、折り合いがうまくついたり、つかなかったりで、至るところに(複数性を担保する)緊張が自己組織化されていく。それらは、無意識が勝手にすすめていくことだし、そのプロセスを走らせるために根本的なところで要求されるものが<時間>なのだ、と考える。「制作」というのは、その種の緊張を解きほぐして(それによって無意識の風景は再組織化されるだろう)、見えるかたちで具現化するようなところがあるのだと思う。だから、僕が最近よく言っていることだが、当人にとって意義深い制作というのは、全く新しいものをゼロから発明するというのではなく、深いところで既視感のあるものを取り出してくることだと思うし、今回の「ボディジェクト試行」の制作における「未知なるもの」との遭遇は、一方では、僕がここ5年ほどの間で積み重ねてきた「からだの錯覚」の研究で、既に予感されていたものでもあるはずだ。そう。ひらめくための準備は、はじめからできていた。


これから10月・11月と、対外的には小鷹研はお休みして、12月以降、また大きな動きがあります。お楽しみに。

名古屋のVRトークイベント「没入の宴」に参加します。

今週末から、名古屋で開催されるVR関連のイベント「没入の宴」に参加することになりました。6月24日(日)14時からのスロット(トーク2「VRと妄想社会」)のどこかで、「VRと身体」というテーマで30分ほど小鷹がトークします。

没入の宴

去年の認知科学会のOS、先日の人工知能学会のOSでしゃべったことを30分で圧縮するような感じになると思います。幽体離脱、心的回転、重力変調、agencyの剥奪(minimal self)、、あたりの話を柔らかく喋ろうと思ってるけど、、そんなんで大丈夫なんだろうか。

同じスロットで、メディアアートの領域で精力的に論評を発表し続けている水野勝仁さんもトークされるということで楽しみにしています。

水野さんのブログの告知

以上、告知です。よろしくお願いしますー。

小鷹

展示の記録と周辺、未満|からだは戦場だよ2018

1月31日付のメモ

「人間は考えヌ頭部である(からだは戦場だよ2018)」が終わった。これを書き出しているのは1月31日の帰りの電車の中。どのくらい書くか、今の時点ではわからない。すでに、twitterで、今回の出品物について多くの解説を加えているので、 そこに何か付け加えるものがあるかどうか。書き出してみないとわからない。

重力反転ギャラリー


「人間は考えヌ頭部である」というテーマは12月中旬くらいには決めていたと思う。約15年ぶりに参加した9月の認知科学会(JCSS)の全国大会で、「HMD空間における三人称定位」という、(どのような立場の研究者であってもおそらくは)なんだかよくわからないタイトルで20分くらい話した。そこで僕が問いかけたのは、今後のメディア環境では、もう少し中距離的なインタラクションを想定する必要があるのではないかということ、そして、その場合、自己の投射に関わる新たな区分として(「身体所有感」でも「自己主体感」ともぴったり重なることのない)「幽体離脱」的な位相を考える必要があるのではないか、、、そんな話をした。「幽体離脱」の問題が、世界的にみて、アカデミックな文脈で正統的なアイテムとして扱われるようになって久しい一方で、日本の研究者が、この問題に真正面から取り組んでいるケースというのを見聞きしたことがなかった。そんなわけで、アウェイの洗礼を覚悟して臨んだ発表であったわけだけれど、蓋を開けてみると聴衆の反応が意外と悪くなかったのは、(だから)全く想定外のことであった。とりわけ、発表の後で、その場に居合わせた錚々たる経歴の先生方(「教養のための認知科学」の鈴木宏昭先生、身体性ロボティクスの浅田稔先生、、)からも、ありがたい言葉をいただいた、、このことも大いに励みになった。

天井を見降ろす(1月29日のレクチャーにて)


<自己の投射に関わる区分としての「幽体離脱」的な位相>というのは、身体を失ってもなお「自分」は「自分」であり続けられるか、という、minimal self の問題=「ギリギリの自分問題」と深く関係している。そして、この点に関して、雑な見立てであることを恐れずに言えば、神経科学と現象学はお互いに対立しているようなところがある。僕には、この問題にクリアな「解」があるのか(ありえるのか)どうかはわからないし、そのような結論を得ることそのものにあまり関心がない。僕にとってはっきりしているのは、「自分」という体験は、「身体を持った自分(A)」と「身体を持たない自分(B)」という、二つの極を持つ軸上のどこかに位置付けられるような様相として記述されうること、あるいは、(A)や(B)に振り切っているような様相の「自分」が現に存在すること、であり、(例えば)(B)の主張に対して「いや、実は、還元的な方向で省察を徹底すれば身体が要件として働いていることは自明である」と説得されたとして、それによって、(B)に振り切れている「自分」に関する体験としての特異性(あるいは(A)との明確な主観的差異)が失われるわけではない。(B)のモードの自分は、「夢見」や「幽体離脱」における「自分」 のあり方を根拠にして、その存在が語られることが多い。でも、そんな極端な状況を例に出すまでもなく、日常空間においても、僕たちは、頻繁に「自分の身体のことを忘れている」。それは、例えば、車を運転している間にとりとめもなく昔のことを回想しているときのことでも思い出せば十分だろう(僕には「ここに至る数分の間、一体どうやって自分が運転していたのか」がわからなくなることが頻繁にある)。こういうことは、複雑な身体の運用が要求されるスポーツにおいても事情は変わらない(スポーツにおいて、身体各部に特定の意識的注意を払う(払わされる)ことがネガティブに作用してしまうことは比較的容易に想像できる)。つまり、複雑な身体運動・身体表現は、「自分の身体のことを忘れる」ことによって達成される。という逆説。

蟹の錯覚


僕の考えでは、HMDにおける一人称体験は、(B)のモードにかなり近接している。さらにいえば、「身体の喪失」は、HMDコンテンツの設計者によって、<現実を忘却するための最強の手段>として積極的に活用されている。僕には、Virtual Realityに関心のある人たちの大多数が、HMDを、<いま=ここ>との接続を切断するための装置として(その多くは無自覚であるにせよ)捉えているように思える。実際、HMDのコンテンツを楽しんでいるときに、自分の物質的な身体に注意を向けるというのは、ちょうど楽しい夢を見ているときに、尿意で目が覚めるような体験に近い。だから、HMD空間の設計にとって、身体という物質性は、魔法の効力を切断する作用を持つノイズのようなものだ。これに関連して、HMD空間内に、顔の前にかざした両手のイメージを、現実の手と位置と正確に重なるように表示させる手法が一般化されて久しい(Leap Motion)。この連関の付与は、一見、「身体という物質性」に注意を向ける触媒として機能するように思える。しかし、(少なくても僕の体感に照らす限り)事態は全くの逆の様相を呈しているように思う。連関性が滞りなく進行すれば進行するほどに、HMDの外側に現に存在しているはずの身体の物質性は、HMD内部の<情報としての身体>へと吸収されていってしまう、、、そのようにして、物質性の付け入る隙はますます閉ざされていく。

ELBOWRIST(回転頭部)



このHMDの中に見える手に投射されているものは、認知神経科学の分野では<所有感>と呼ばれるものである。<所有感>は、自己の投射において、もっとも「自分」と空間的に近接している、「自分」の生々しい投影である。あるいは、<所有感> は、モノに付着した<自分の身体>というラベルである。<所有感>そのものが生々しいのではない。<所有感>を背後から支えている物質的な根拠の(その背後から否応無く滲み出てきてしまう)存在感が生々しいのである。HMD空間の中で構成される<所有感>の感触は、この物質的な根拠が、平板な光学イメージに一挙に代替されてしまうことによる、モノ性の剥奪である。HMDで、自分の手がロボットハンドに置き換えられてしまう異常事態に際しても、<ぞわぞわ感><きもちわるい感>は、ほとんど生じない。HMDなどつけずに体験できる<所有感> の変調(Rubber Hand Illusion)の方が、よほど<やばい>体験ができる。<所有感>そのものが生々しいのではなく、不十分な粘度でかろうじて張り付いている<所有感>というラベルを剥いだ先にある物質的実体が透けて見えてしまうことが生々しいのだということ。これは、HMD体験における『<生々しさ>の欠如問題』を考えるうえで非常に重要だと思う。

5月27日付の追記

と、ここまでが、戦場が終わって、最初の数日、2月初旬を目処にブログにアップすることを目標に断続的に書いていたと思われる内容。その後、ちょっと熱が冷めて、次々に飛び込んでくる締め切りにも忙殺され、そうしている間に授業期間に突入し、学務も増え、気力も減退し、風邪をひき、、、1月の終わりから書いた文章のことなんて完全に忘れていた。

もう4ヶ月も前に書かれたという、まるで自分の手つきとは思えない文章を読み返してみると、しかし、その核心は、たった今、僕が大学の座学で<メディア解剖学>という枠組みで思考していることにとても漸近していることがわかる。僕たちの自意識は、いつだって一つのリアリティーの中に閉じ込められている。そして、リアリティー(=リアルっぽさ)というのは、いつだって不可視のリアルの<一つの現れ方>でしかない、にもかかわらず、それがただ一つのリアルだと誤診してしまう(リアル=リアリティーの誤謬)。小鷹研による「からだの錯覚」の探求は、まず何よりも、物質的な身体とは異なる別の恣意的なイメージに自分の身体所有感を託そうという具体的目標に動機付けられているのであり、したがって、一見すると、そのような目標の達成の先には、複数のリアリティーの乱立した「前衛的」な未来が待ち受けているようにもみえる。

他方で、ここで言っている前衛が究極の理想とするものが、単に、HMDで手のイメージが瞬時に切り替わるような、スマートな<リアリティーの着せ替え>的オペレーションを指すのであれば、そんな未来は、なんというか、やはり、ひどく「くだらない」もののように思えてしまう。僕にとって、何より大事なのは<生々しさ>のことであり、その<生々しさ>は、リアリティーが剥がれて、別のリアリティーに交代する間であったり、交代に失敗する間のわずかな刹那に立ち上がる。あるいは、複数のリアリティーが拮抗して(見かけのうえで)並列的にお互いの領有権を主張し合っている状態において立ち上がる(追記:その意味でモノ性がリアルなのではなく、所有感とモノ性の交代の予感こそが大事なのである)。尿意を覚えつつある夢の外側に意識を向けながらも、同時に夢の内側の世界が消失しないような特異的状態(明晰夢)こそが、前衛と呼ぶに相応しい。それは、原理的に絶対的な不可視領域として想定されるリアル(現実界)の<形式>が、反転を含むような<形式的変換>を経て(<形式>の形式的変換としての<<形式>>)、リアリティーの外側からリアリティを揺さぶるものであるし、同時に、リアリティーの内側からリアリティーの外側への予感を喚起するものでもある。HMD体験から酔いが消え、<リアリティーの着せ替え>が簡単に達成されるような高度な技術的水準へと到達した今現在、いまいちど、そのHMD的なリアリティーを部分的に<剥がす>方向へと舵を切らないといけない。と、小鷹研は、そのように自分たちの向かうべき方向性を見定めようとしている。

IMMIGRANT HEAD(漂流頭部)


さて、以下は、既に過去のものとなった「からだは戦場だよ2018|人間は考えヌ頭部である」の記録集みたいなものである。ここで発表した装置のうちのいくつかは、(去年のRecursive Function Space、Stretchar(m)みたいに)運が良ければ、今後何らかの公的な展示会に出展されることがあるかもしれないし、戦場での公開のみで絶版となってしまうものもあるだろう。今後、小鷹研の活動がどれだけ周囲の関心を獲得するかは相も変わらず未知状態ではあるけれど、少なくとも、未来の小鷹研にとっては大事な資料になる。今後も、展示の後で(たとえそれが4ヶ月の遅延を伴いながらも)、アーカイブしようとする意志のエネルギーが発動するに足るだけの<問題含み>の展示を続けていきたい。

映像

からだは戦場だよ2018|記録篇

からだは戦場だよ2018|予告編


フライヤー

特設サイト(http://lab.kenrikodaka.com/event/2018_KSJ/index.html)

5つの装置

Self-Umbrelling(重力反転計画α)

on Twitter
各位各論身体論

各位各論身体論(英語):Self-umbrelling (2018) |KENRI KODAKA / KOYO MORI

付記

ほとんどの体験者は、Self-umbrellingで視点が切り替わっている際に、「重力反転」状態にあるということに、自覚を促さない限り気づかない。逆に言うと、それほど、重力反転という事態を<すでにある風景>として、何事もなかったように引き受けている。だから、小鷹研の出し物としては、ある意味で<きれいに>事がすすみ過ぎてしまっているな、という感覚すらある。

しかし、よくよく考えてみてもらいたい。重力の上下が逆さまになってんだぜ。立位状態では、頭を真下に向けるようなコウモリのような姿勢の変換を強いられることを思い出せば、それがいかに「狂った仕様の変更」であるかが理解してもらえるのではないかと思う。寝転がっている状態が有しているものと思われる、こうした(重力反転した自らをあらかじめ内側に孕んでいるかのような)特殊性については、今回の展示を通して、はっきりと認識することができた。今、心理実験の結果がポツポツと出てきている。すごく面白い。早く共有できればと思う。

ELBOWRIST

on Twitter

付記

この種の展示は、適応に時間がかかるために、よくわからないままに終わってしまうことが多い。それでも映像(記録篇)を見てもらえればわかる通り、少なくない人が、新しい「からだの風景」を獲得するべく、強い好奇心で長い時間、ELBOWRIST空間で試行錯誤を続けていたし、そのうちの何人かは、「後ろを直接に見る」ステージに到達できていた。室田さんも卒業してしまったことだし、今後、ELBOWRISTが外部に出て行くことはないだろう。それでも、約半年ほど、ELBOWRISTの世界にどっぷりと浸かってきた僕の視点世界の中には、背面の風景がもう織り込まれてしまっている。いつか夢の中に出てくればいいけれど。

主に関わった人

室田ゆう

ELASTIC ARM ILLUSION

映像

on Twitter

各位各論身体論

各位各論身体論(英語):Elastic Arm Illusion (2018) |KOYO MORI / KENRI KODAKA

付記

映像を見てもらえればわかるように、今回のElastic Arm Illusionは、多分、過去の小鷹研の歴史の中でも、もっとも人を選ばず、わかりやすく、そして圧倒的に強力な錯覚体験を生み出していると思う。誇大広告的に言って、これは一種の事件ですらあるかもしれない。これは(一緒にやっている森くんの労に報いるためにも)、ちゃんとしたかたちで外部で発表されなくてはならない。それはわかってる。わかってる。。ただ、外部へのアピールって難しい。がんばろう。

主に関わった人

森光洋

Immigrant Head(漂流頭部)

各位各論身体論

各位各論身体論(英語):Immigrant Head (2018) |KENRI KODAKA / YOSHITERU KAGA

付記

漂流頭部は、バチでパチンと頭を弾かれる体験(flicked separation)と、頭部を後方に傾けるに従い徐々に実の頭部から第二の頭部が離脱して行く体験(pulled separation)に分かれる。前者の「flicked separation」の体験は、間違いなく、今回の展示の中でもっとも個人差の強く顕れているものであった。sensitivityを一つの軸としてプロットできるとすると、はっきりと二極化していたような印象を持っている。

記録篇では、編集の都合上、強い反応をしている人たちだけを集めているので、あれが典型的な反応かというと、もちろんそういうことではない。あくまで、二極化している一方の極のグループの中においてみられる典型的な反応に過ぎない。いずれにせよ、強い反応を示している人たちの表情には、HMDを通して見ているものが(ビジュアルとして)単にセンセーショナルであるということに留まらない、より内側からせまりくる抗いがたい異化作用への対処に追われているような、そのような「からだの錯覚」に固有なかたちで付帯してくる、例の不安な表情が垣間見れる。他方、もう一方の極の人たち(の一部)は、弾かれた頭部に対して、それが自分の身において生じたような感覚を”一切”持たない。まさに、「他人事」である。弾き飛ばされる頭部は、彼らにとっては、その辺に転がっているボールと大差ないというわけだ。

二極化されたうちの一方の強烈な反応と、もう一方の動じない人たちのシベリアのような冷え切った無反応の両者を併せて目撃していると、この両極には、「自分」を「自分」たらしめている根幹の部分で、何かしら乗り越え難い壁のようなものが存在していると感じてしまうことがある。おそらくは、この個人差は、他者に対する共感に関わる尺度の強度が、Rubber Hand Illusionのsensitivityと有意に相関するという知見によって説明できるところが大きいように思う(あるいは、一般の所有感の錯覚よりも、より純粋なかたちで作用しているような気もしてる)。その辺の検証もいつかできればやりたい。

他方で、「pulled spparation」の体験(に伴う異質さの発露)は、それほど人を選んでいなかったのではないかと思う。体験中に、はっきりと「幽体離脱」という言葉を発する人が何人もいた。ここでの<幽体離脱感>というのは、視点の浮遊感以上に、『前方に見えている(そして離脱しつつある)身体の像こそが、自分のあるべき場所である』という信念の強さによって、裏打ちされているように思う。この種の、離れ行く身体に対するretrospectiveな気分(懐かしさ)を生み出すという点では、「immigrant head」は、「Recursive Function Space」「I am a volleyball tossed by my hands」「Self-Umbrelling」における体験を遙かに凌いでいると思う。この差異は、「immigrant head」が、小鷹研の歴史の中で唯一、対面型(face-to-face)ではない幽体離脱を扱っていることが強く関係しているのは明らかと思う。ただ、それだけなのだろうか。「immigrant head」のコンセプトの核には、実は、方法論の水準で、視点を(頭部の動きに同期する)頭部背面表象に置き換えるという画期的なアイデアがある。この点について、形式的に考えてみるのは面白い。なぜなら、「immigrant head」は、幽体離脱的な様相として、「身体的自己」と「視点的自己」を分離するが、そうして分離された「視点的自己」において、さらに「身体的自己」と「視点的自己」が分裂していることになるからだ。「身体的自己」は、自らへと収斂する「視点的自己」を外側に吐き出し、そうして吐き出された「視点的自己」は、再びその内側に(新たな)「身体的自己」を孕んでしまう。あるいは、そのような「身体的自己」を内側に孕むことのない「視点的自己」には、「自分」と呼べるようなリアリティーは付帯していないのではないか。

主に関わった人

加賀芳輝

蟹の錯覚

付記

この「蟹の錯覚」の蟹は、現IAMASの佐藤優太郎くんによるアイデア。源流は、2015年の戦場の出前授業のときに捻り出した「フェンスよじ登りからの紙芝居おじさん」。それ以来、授業やワークショップなどで試しながら、基本的なアイデアは申し分ないけど、もう少し、親しみやすいパッケージに落としていけないものかと、長いこと、ふわふわと模索していた。

2017年度、なかなか味のあるイラストを書くなと思っていた4年の佐藤くんに、卒業研究として、「フェンスよじ登りからの紙芝居おじさん」の続篇をつくる、という(小鷹研にとっての)とっておきのプロジェクトを与えた。ほんと、ギリギリまで苦しんだけど、最後の最後(クリスマス辺りだったか?)、秀逸なイメージが出てきた。「蟹の錯覚」は、まさに物質的な身体とイラストの身体のそれぞれが拮抗しながら、リアリティーの覇権を競い合うような事態であり、小鷹研の考えるところの前衛的な風景そのものである。「蟹の錯覚」が、未来の小鷹研の常設アイテムとなることは間違いない。

イラストとは別に、「蟹と蟹の錯覚の対戦」の制作のarduino周りの設計を、石原さんにお願いした。うちの子供たちは、1時間以上独占して遊んでいたらしく、展示終わってから、しばらくの間「あの蟹のやつを家に持ってきてほしい」と言われ続けていた。

主に関わった人

佐藤優太郎、石原由貴

その他

古谷利裕(画家・評論家)さんによる体験手記

人工知能学会全国大会(JSAI2018)のOS招待講演で発表します。

告知です。

まだ少し先になりますが、6月7日(木)、鹿児島県で開催される人工知能学会全国大会(JSAI2018)のオーガナイズド・セッション(「プロジェクション科学」の展開と発展)で、小鷹が招待講演で発表します。

講演の予稿が、以下のリンク先でPDFで公開されてます。

小鷹研理:「HMDによる構成的空間を舞台とした「三人称的自己」の顕在化」, 2018年度人工知能学会全国大会, 鹿児島(城山観光ホテル), 2018.6(Organized Session:「プロジェクション科学」の展開と発展)
[講演情報]
[PDFダウンロード]

予稿という位置付けではありますが、そこそこ濃いめの仕上がりになっているのではないかと。幽体離脱において生じている投射の特殊性を実験科学的な立場から整理するとともに、HMDが幽体離脱の特性を探る上で魅力的な道具となり得ることを、実例に即して解説しています。ぜひダウンロードしてご覧ください。


せっかく40分という長い講演時間をもらってるので、『からだは戦場だよ』とか『おとなのからだを不安にさせるからだ』あたりの、小鷹研独自の活動についても少し紹介できたらな、と思っています。ただ、話の中心は、幽体離脱と重力知覚の関係のところに置くつもりです。もっと言うと、幽体離脱を人工的に構成するうえで、重力知覚(の変調)という切り口がいかに魅力的であるかを、色々な角度から伝わればいいなと思ってます。とりわけ、前庭系が一人称視点の方向性を決定する上で重要な役割を果たしていることを種々の観点より解説しているBlankeのチームによるReview Article

Pfeiffer, C., Serino, A., & Blanke, O. (2014). The vestibular system: a spatial reference for bodily self-consciousness. Frontiers in Integrative Neuroscience, 8.
[原文]
[レコード・オブ・ジャーナル・レコーディング(小鷹研究室)]

は、今回の講演のテーマの基底を成す論文です。もちろん、今年の戦場で発表したSELF-UMBRELLING(下図)とも深く関係する、最近すすめているHMDを使った二つの重力反転実験で得られている小鷹研独自の知見も紹介していきます。


自分のような無法者に声をかけていただいた、青山学院大学の鈴木宏昭先生と北海道大学の小野哲雄先生の期待に応えれるよう、普段のテンションでいきます。よろしくお願いします。

なお、この講演が済んだら、そのまま南(東?)にスライドして、家族で屋久島に行って来ます。招待講演も屋久島もすごく楽しみ。
(小鷹)

卒業おめでとう〜|2017年度卒業生(加賀芳輝・佐藤優太郎・永吉貴裕・室田ゆう)

久しぶりの更新です。
と思ったら、もう四人は卒業なのです。

謝恩会で、大きなお花をもらいました。家に帰ってから、あらためて個々の花に目をやってみると、結構な密度でいろいろなものが詰まってた。やっぱり、花は嬉しいよ。

ながよしくん、さとうくん、むろたさん、かがくん(2017年度・謝恩会)

研究室における教員と学生の関係には、ある種の権力関係が働く。例えば、僕は、彼らが卒業できるかどうかの判断を最終的に下す権限を持っている。ときどき、教員としての自分が帯びてしまうこの種の「権力性」に対して、<うざいなぁ>と思うことがある。それは、別の研究室で理不尽な状況に巻き込まれている学生を見た時に自分に照り返されてくるものだったり、あるいは、(種々の局面で)親でもない僕がわざわざでてきて、学生に対してやかましいことを言わなくちゃならないときに感じるものだったりするわけだけど、そんなこんなで、権力を意識しないといけない状況というのは、行使する側にとってもされる側にとっても、本当にうんざりなのだ。

で、

家族でもないし、疑似家族とも言いたくないし(そんなベタベタしてない)、でも決して会社とかとも違う(「何の役にたつか」なんてつまらんことばかり言わないでね)、そんな研究室という空間で、しかし、この種の非対称的な権力性と対峙するために、教員としての僕が、僕自身に課している最低限の責務は、小鷹研以外では決してお目にかかれないような、面白い風景を学生に見せてあげること。そのことにつきる。それができなかったときに僕はすごく凹むだろう。

で、

今年でてきたものが、これなわけで。

小鷹研・卒業生の全仕事(2017年度卒業生)

凹む理由をわざわざ探し当てる必要もない。

(それぞれが、それぞれに、僕の卒論の73000倍くらいの価値はあると断言します)


卒業おめでとう。
特に惜別の言葉とかはないです。

まずは、小鷹研および大学生活から解放された自由を謳歌できるだけ謳歌すればよい。これからは、それぞれの場所で、それぞれのやり方で、勝手に人生が展開していくのだから。

あえて言えば、自分が権力を行使する側になったときに「イタイ大人」とならないようにね(でも、今年の卒業生もそうなりそうな人は一人もいないけれど)。

僕は僕で、みんなの仕事の続きを引き受けてやってきます。

毎年、毎年、この繰り返し。
ふ〜。

忘れた頃に、どこかで会いましょう。

p.s.
室田さん、学科賞(研究賞)おめでとう(↓)。室田さんの将来が本当に楽しみですわー(半ばお父さん目線です)。

むろたさん、学科賞(研究賞)

p.s.
あ、そういえば、佐藤くんは、近くにいるので、蟹の錯覚の研究、もうしばらく一緒に続けていきます。まずは、9月の認知科学会を目指そう。

Siggraph Asia 2017(2017.11.27-30)への参加

siggraph asia 2017へのVR装置の出品のため、研究生の森光洋くんと、はるばるバンコクまで行ってきました。
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発表したのは、幽体離脱的な体験を与える「Recursive Function Space」と、腕が伸びるような感覚を与える「Stretchar(m)」です。Stretchar(m)は、森くんの修論(身体各部の伸縮感覚の誘発)の最後の最後のところで、一緒に作ったやつです。

⬜︎ これらは、もともと、今年1月の「からだは戦場だよ2017」への出品というかたちで、(極めてローカルなエリアで)初めて発表したものなのですが、わずか10ヶ月ほどで世界的な舞台に辿り着いたことになります。
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⬜︎ Stretchar(m)については、今回のsiggraph asiaへの出展の直前のタイミングでプレスリリースを出したこともあって、いくつかの媒体が取り上げてくれています(現時点で、取材中のところもあります)。

⬜︎ 11月26日は一日中設営、
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その後、27・28・29日と、朝から夕方までひたすら展示。

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日本の学会でのインタラクション展示は、だいたい2時間くらいで終わるのが常なので、三日間ひっきりなし展示ブースに張りついて、新しいお客さんが体験に来られる、というのはとても新鮮でした。
ただ、初日の展示が終わった後、この調子でやっていたら僕も森くんも身体が壊れるな、と思って、二日目・三日目は、少し多めに休憩を取るようにしました。それで、意外と疲れなかったかな。

⬜︎ で、展示については大好評だっと思います。本当に。体験者の数も、(他と比べても)すごく多かったんじゃないかな。
Stretchar(m)は森くんの担当。三日間ずっと引っ張り合いっこしてました。時折叫び声が。

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RFSは僕です。一度体験した人に勧められて来る感じの人が多かったです。

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ほんと、みんな、こんな(↓)感じの反応です。だもんで、展示する側も飽きないし、楽しい。


以下は、twitterで拾えた反応。


バンコク滞在中、一切観光をせず(できず)、毎晩、ホテルと会場の間にある屋台に通ってました。おいしかったー。
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トムヤムクン、海老入りすぎ、パンチききすぎ、で三日目から胃が少し疲れてきた。

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