『からだは戦場だよ2018Δ』趣旨文

5年目の「からだは戦場だよ」を12月22・23日に(まずは)開催する。展示名を「からだは戦場だよ2018Δ(デルタ)」、副題を「ボディジェクト思考法」として。

からだは戦場だよ2018Δ 予告篇(小鷹研究室)

まずはΔが含意しているものについて。
今年の1月に既に『からだは戦場だよ2018』を開催している以上、同じ展示名を使うことはできない。そして、Δは12月開催のDecemberの頭文字にかかる。そうした事情は、一応のところ事実に即している。他方で、僕がΔで強調したい部分は別にある。仮に今回も例年通り年が明けて1月開催であったとして、それでもなお今回の展示の冠には「2018Δ」という表記を与えることがふさわしい、僕にはそのような感触がある。その理由は、僕が『からだは戦場だよ』を今回でクローズしたいこととも深く関係している。

『からだは戦場だよ』は、その開催の度に、新しい風景を貪欲に開拓していった。それらの軌跡を辿るには、2014年以降の展示の副題を眺めてみることが助けになる。

「からだは戦場だよ(2014)」
「バードウォッチャー・ウォッチング(2015)」
「とりかえしのつかないあそび(2016)」
「人間は考えヌ頭部である(2017)」

小鷹研究室は、『からだは戦場だよ』という名の基調的な囲いの中にあって、その都度、危険なモチーフを新たに見出し、『戦場』の同一性を根拠づける審級へとドラスティックに介入してきた。『戦場』に漂う独特な切迫感の背後には、そのような<とりかえしのつかない>実験精神が伏流している。一方で、僕は、『戦場』がこれまでに担ってきた実験精神を、今回も同じようなかたちで発動することができなかった。端的にいって、前回の戦場「人間は考えヌ頭部である」の時点で、研究室にとって重要な論点は、十分に出尽くされていた。そして、それはなんら、ネガティブなことではない。あまりに深遠な問題系の門をついに潜ってしまったこの段階で、拙速な流動性に身を任せて、一度設定した問題を十分に咀嚼できていないままに、兎にも角にも胃袋の中に流し込んでしまうような粗雑な振る舞いは慎むべきである。だから、今年の戦場の問いは、「からだは戦場だよ2018」から地続き(Δ)な地点にあることを、この際、明確にしておきたい。そして、それゆえに、今回の戦場は、小鷹研究室の濃密な第1期の終結宣言でもあるわけだ。

今年のテーマ「ボディジェクト思考法」が「人間は考えヌ頭部である」から地続きな地点にあるとは、どういうことか。実は、今年の戦場は、随所に「人間は考えヌ頭部である」で提起されたモチーフが再演されている。「視点的自己」はそれ自体として独立に成立しているようにみえて、「自己」を意識の上で結晶化しようとした瞬間に「身体的自己」がその内部に召喚される。「人間は考えヌ頭部である」はその種の<不自由さ>の問題を主題としていた。他方で、意識は隙あらばそうした不都合な事実から目を逸らし、空想的な自己を演じようとする。そのようなかたちで、視点とオブジェクトとしての身体の間で終わりのないいたちごっこが展開される。この過程で、完全に「無」に記すことのできないオブジェクトの、しかし極小化された形態として、我々は<頭部>というモチーフを見出した。したがって、この<頭部>なるものは、「自分」の中に宿る<自由にならないもの>の象徴なのだ。

この<頭部>は、運動感覚(に伴う頭部の回転)と同期的に動作することで自己感を召喚し「body」として振る舞うとともに、放物線を描きながら床に放り出されることで「object」としての本性を露わにする。このような身体に本性的に組み込まれているはずの「body」と「object」の二面性に対して、我々は最近になって「bodiject」という名を与えた。本展で、我々は、身体を「bodiject」として眺めるための方法を、ありとあらゆる角度から提供しようと思う。そして、そのような意味で、本展のテーマ設定である「ボディジェクト思考法」は、「人間は考えヌ頭部である」の含意を身体全体に一般化したものであるにすぎない。そして、本展においても<頭部>は依然として (いや以前に増してより)重要な場所なのである。


さて、初日(12月22日17時〜)は、画家で評論家の古谷利裕さんと、アーティストの金井学氏をゲストとしてお呼びする。お二人は、芸術が芸術であるとはいかなる事態を指すのか、作品が作品足り得るために、作品は現実に対してどのような関係を結ぶべきか、そのような芸術のトートロジーに関わる根源的な問題を、様々なテキストおよび具体的な制作実践を通して深く思索してきた賢人である。僕自身といえば、芸術表現や批評の世界の中で流通している諸概念に対してすっと腑に落ちるような手応えを感じることができないままにこれまで年を重ねてきたようなところがある。さらにいえば、そもそも僕は、美術に関わる一般的な教養を圧倒的に欠いている。だから「芸術に対する感受性」のような計量可能な指標があったとして、僕は、僕自身のそれをかなり低く見積もっていた。他方で、ここ数年、古谷氏のテキストや、旧友である金井学との度重なる対話の中で、どうやら『からだは戦場だよ』でこれまで展開してきた実践と、彼らの考える芸術論はそれほど遠く離れていないのではないのかもしれない、そのような手応えを得るようになった。もっと言えば、僕が「からだの錯覚」の実践を通して追求してきた、<自分>が根底から揺さぶられるようなvividな体験を、彼らは(例えば)絵画を通して享受しているのかもしれない。「からだの錯覚」は、現実の背後で鎮座する身体を身体たらしめている生々しい場所(物質的界面)へと介入し、身体を括弧つきの身体へと退行させる。bodijectというのは、例えばそのような位相のことである。そして、言われてみれば当たり前のことかもしれないが、やはり、芸術も、その本性は、潜在的領域に働きかけることで、顕在的領域であるところの現実を組み替えていること、あるいはその予感を与えることにある。

例えば、古谷氏は「幽体離脱の芸術論のための助走(ÉKRITS)」において、

「セザンヌやキュビズム、マティス、あるいはマネなどの絵画がやっていたことは、図(対象)を描くこと(その描き方)によってその潜在的背景となる地(場や文脈)を分裂させ、地の存在を意識させることでした。あるいは、絵画空間を歪ませることで、決して顕在化することのない「地の分裂」を暗示させるということだったのです。」

と、このように書いている。

あるいは、金井学の東京藝術大学の博士論文『芸術を為すことを巡って 世界の記述形式ーそのトランスダクティブな生成について』は、論文審査において、以下のように評価されている。

「「作品」として顕在化するものが、単独的な出来事性を帯びて出現しながら、同時にその作品を可能にしている世界の潜在的な諸力との関係を露わにするような「個体」となることを彼自身の創作の基礎におくと結論づける。(中略)芸術の自律性を、還元主義的かつ自己完結的な方向に展開するのではなく、それをとりまく諸力の均衡状態であり、生成変化し続けるプロセス(つまり、トランスダクション)として捉え直す理論的見通しをつけた主張は、高い評価に値する。」

ここで語られているのは、「絵画における図」なり、いま・ここに前景化している「世界」なりが、ある特定の場に置かれ相互作用に晒されることによって、そのような<見え>を基礎付けていた「諸力の均衡状態」に歪みが生じ、裂け目が生まれ、ある時点での<見え>が相対化されていくことである。『からだは戦場だよ』は、特定の手続きを通じて、「身体」を基礎付けている調和的なオーケストラの場へと潜入することで、「身体」を、およびそれに紐づけられた<自分>を、括弧付きの身体・自分へと組み替えていくことを主題としてきた。そして、これらは、扱うメディアは違えど、ほとんど<同じ作用>のことについて言及してはいないか。

ここで僕は、あえて「相対化」という言葉を使った。「相対化」にせよ「多様性」にせよ、それらはかつて、マイノリティーへの共感を喚起する政治の言葉として、使い勝手よく流通してきた。他方で、2018年現在の地点に生きる僕たちは、これらの言葉が孕む<嘘>をよく知っている。過度の相対化・多様化は、かえって、より強力な絶対性への信仰に転じてしまう。そのような逆説は、現在進行中の史実である。作品が、現実を相対化する作用を持つのだとして、相対化は、必ずしも現実を組み替え、複数のものたちが拮抗して現実を主張し合うような風景へと結実しない。テクノロジーによって、現実を編集するためのコストが限りなく取り払われた今、異なる現実を呈示しとにもかくにも「作品のようなもの」を呈示してみせることに対する敷居はますます低くなっている。このような状況下で、「相対化」が実際に現実を組み替えるための基礎的な条件についてより深い考察が必要である。よい「相対化」と悪い「相対化」を考えるための道具立てを揃えること、しかし否定神学的な隘路に陥ることなく。以上の命題は、僕にとっては、芸術の問題というよりも、僕自身の研究分野であるVRや認知心理学における、性質の良い「自己の投射」を設えるための実際的・技術的問題として浮上していた、というのが本当の話である。そして、僕にとって、この種の問題を解くために「幽体離脱」の問題系が浮上するのはアカデミックな意味においても、直感的にも必然的な帰結なのである。ここでいう直感には、「幽体離脱」こそが<自分>を組み変えるだけの強度を潜在的に有している投射の形態である、という確信が含まれる(性質の良い投射は必ずしもコントローラブルとは限らない)。そして、以上の意味において「幽体離脱」は芸術の問題でもあると同時に、小鷹研究室がこれまで生み落としてきた幽体離脱VR(「Recursive Function Space」、「Self-umbrelling」、「重力反転大車輪計画」)にも、芸術の萌芽が含まれている。少なくとも、僕は古谷氏がフォーマリズムによる芸術論の再構築の準備をする論考を何度か読み返しながら、そのようなことを想像している。

あらためて、今回、二人のスペシャルなゲストをお呼びすることができて本当に嬉しく思っている。僕としては(少し言い訳がましいが、このトークセッションに向けて、自身の芸術の教養を一からやり直すことなどは残念ながら全く叶うことなく)展示の本体において<例年と遜色のない>不穏な体験を今年の戦場でも送り出すことにひたすら注力してきた。というか、僕のような人間に求められている役割は無論そっちであって、お二人の芸術論に花を咲かせるための良き触媒となることこそが重要なのだ。そして、個人的には、今回の新作の体験の質には、ものすごく満足している。だから、僕の役割はもう9割型、終えた気でいる。当日は、お二人にそれぞれ30分程度話してもらった後で、三人でディスカッションという流れであるが、細かいことは何も決めていない。司会的な役回りは安心と信頼の金井くんにお願いしてる。楽しくも刺激的な時間になるだろう。

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