身体所有感であったり、自己主体感、あるいは最近であれば「sense of self」「numbness」と呼ばれる様な感覚は、一昔前のサイエンスであれば、名状しがたいものとして退けられていたもののはずです。ありがたいことに、今の認知科学では、このような独りよがりな感覚を扱うだけの懐の深さを持ちつつあるように思います。そして、僕は、今後の研究の中で、これまでと変わらず一人称的な体験と深く向き合っていくなかで、認知科学というフォーマットがより柔らかなものへと変態していく、そのためのお手伝いができれば、と思っています。
僕は、(とりわけここ数年の)戦場において一切の妥協をしなかった。戦場において出品された装置は、どれも僕自身の主観に照らして一定の基準を満たしている。その基準とは、装置がつくりだす体験において、僕自身が新しい風景の中に否応無く取り込まれていくこと、しかもその中で「ぐぐぐとくる」瞬間に立ち会うこと、、この二点に尽きる。そして、そのような新種の体験は、戦場に出品した学生の数だけ、一年おきに更新されていった。この僕自身の設定した基準なるものは、決して独りよがりのものではない。実際、岐阜の小さなギャラリーで発表されたそれらの小さなアイデアが、その後、国内外の名誉ある舞台への展示(Siggraph Asia 2017, 2018、VR Creative Award 2018)や受賞(Unity Award in EC 2017)へと回収されていったことは、研究室の大きな誇りである。
6月初旬は、人工知能学会でOSの招待講演(発表はちょっと詰め込みすぎですべり気味、、)から家族で屋久島旅行へ。それから6月24日には、名古屋のGOLDEN ARTS CAMPで行われたVRイベント『没入の宴』でトーク(これはすごく反応良かった)。それぞれ30〜40分の長めのトークで、どちらも幽体離脱関連の話を中心にした。
8月には、僕の研究室で修士号をとった研究生の森光洋くんとすすめている、HMDを使って腕が伸び縮みする体験を与える「Elastic Arm Illusion」が、VR Creative AwardのFinalistに選ばれた。で、急遽、24・25日と、森くんと四年生二人(岡田くん、安楽くん)を連れて、渋谷のEdgeOfというところへVive一式を持ち込みデモをしてきた。Finalist(12組)からさらに遡って、一次審査通過組(35組かな?)のリストをご覧になればわかる通り、ハイパーごりごりの産業寄りのラインナップの中で、うちの研究室がやっているような錯覚体験指向の作品を、一つポツンと選んでもらったことに大きな価値があると思ってる。3年前に、曽我部さんの卒業研究で、物理的に観測される自重変化と映像空間における身体の伸縮イメージを連関させる手法を見つけてから、少しずつバリエーションを増やしながら各所で発表を積み重ねていったことで周囲の認知度が上がってきたことの成果だと思ってる(だって、体験型だもんで、やらなきゃわからんし)。
いろいろ、サーベイしている中で、この手と影の空間的配置が、「からだの錯覚」研究においてmoving rubber hand illusionと呼ばれるカテゴリーに対応していることがわかった。そのうえで、(これまでのMRHIの研究でラバーハンドとしての役割をなしてきた)ロボットハンドや人形、CGの手とは異なる、影の特殊性というのも、どうやら主張できそうだな、というのもわかってきた。端的に言って、影は、影自体として、強い引力を持っている。一緒に触るとか、一緒に動かすとか、そういうややこしいことする以前に、それ自体としてもっているイメージの力が確かにある。影と鏡、いろんな意味で偉大です。この辺の話は、プレスリリースに(部分的にですが)書いておいたので、よろしければ見ておいてください。映像も〜!!
(論文、ほんとは、もっといっぱい出したい。頑張ります。)
発表論文
Kodaka, K., & Kanazawa, A. (2017). Innocent Body-Shadow Mimics Physical Body. I-Perception, 8(3), 204166951770652. http://doi.org/10.1177/2041669517706520 OPEN-ACCESS
この論考では、柴崎友香の小説『ビリジアン』の主人公である山田解の、小説全体における時系列的な配置のあり方が主題的に論じられるのですが、山田解であるところの<わたし>の様相を詳細に読み解くうえでの「入り口」として、文学とは異なる形式を持つ領域で発表された3つの作品・装置の体験における<わたし>の変異が考察されています。このうちの2つが、ICCで昨年、一年間に渡って行われた展示『メディア・コンシャス』のなかで出品されていた、津田道子さんの「あなたは、翌日私に会いにそこに戻ってくるでしょう。」、谷口暁彦さん「私のようなもの/見ることについて」。そして、最後の一つが、小鷹研究室の「Recursive Function Space」(以下、RFS)ということになります。
ここでは、論考の中身については詳しく触れませんが、論考の一つの論点である、「<わたし>が<ここ>にいること(に関わる感覚)」が、「<わたし>がこの<わたし>であること(に関わる感覚)」と分かち難く結びついてしまっている、このいわば「自意識にとっての公理的な基底」に対してフィクションがどう介入するか、という問題意識は、「sense of self」という概念が徐々に市民権を得つつある(つまり、「sense of self」を操作可能な一つの変数とみなそうとする)実験科学の分野においても、とてもアクチュアルなものであるといえます。(一方で)めぼしい”物証”が期待できないであろう、こうした難しい課題を捌いていくうえで、そもそもこれまで、人類が芸術を(<わたし>がフィクションを)どのように受容してきたか(受容しているか)を参照項とすることは、重要な足がかりとなるはずです。小説世界における<わたし>が、(ちょうど『ビリジアン』で生じていたように)物理世界の時空とは異なる原理で、柔軟に変形し、不連続的に転換し、入れ替わり、、そのなかに読者である<わたし>が参加し、ときに<わたし>と<わたし>が共鳴する(そして、読者である<わたし>の組成が変調し、再編成されていく)。ここで生じているであろう、<わたし>と<わたし>が関係し合うパターンを、言語的あるいは数学的に掬い出し、その記述の一般性の強度を、異なるメディアにおいて成立している同型的なパターンを掬い出していくことによって、保証していこうとする試み。