展示の記録と周辺、未満|からだは戦場だよ2018

1月31日付のメモ

「人間は考えヌ頭部である(からだは戦場だよ2018)」が終わった。これを書き出しているのは1月31日の帰りの電車の中。どのくらい書くか、今の時点ではわからない。すでに、twitterで、今回の出品物について多くの解説を加えているので、 そこに何か付け加えるものがあるかどうか。書き出してみないとわからない。

重力反転ギャラリー


「人間は考えヌ頭部である」というテーマは12月中旬くらいには決めていたと思う。約15年ぶりに参加した9月の認知科学会(JCSS)の全国大会で、「HMD空間における三人称定位」という、(どのような立場の研究者であってもおそらくは)なんだかよくわからないタイトルで20分くらい話した。そこで僕が問いかけたのは、今後のメディア環境では、もう少し中距離的なインタラクションを想定する必要があるのではないかということ、そして、その場合、自己の投射に関わる新たな区分として(「身体所有感」でも「自己主体感」ともぴったり重なることのない)「幽体離脱」的な位相を考える必要があるのではないか、、、そんな話をした。「幽体離脱」の問題が、世界的にみて、アカデミックな文脈で正統的なアイテムとして扱われるようになって久しい一方で、日本の研究者が、この問題に真正面から取り組んでいるケースというのを見聞きしたことがなかった。そんなわけで、アウェイの洗礼を覚悟して臨んだ発表であったわけだけれど、蓋を開けてみると聴衆の反応が意外と悪くなかったのは、(だから)全く想定外のことであった。とりわけ、発表の後で、その場に居合わせた錚々たる経歴の先生方(「教養のための認知科学」の鈴木宏昭先生、身体性ロボティクスの浅田稔先生、、)からも、ありがたい言葉をいただいた、、このことも大いに励みになった。

天井を見降ろす(1月29日のレクチャーにて)


<自己の投射に関わる区分としての「幽体離脱」的な位相>というのは、身体を失ってもなお「自分」は「自分」であり続けられるか、という、minimal self の問題=「ギリギリの自分問題」と深く関係している。そして、この点に関して、雑な見立てであることを恐れずに言えば、神経科学と現象学はお互いに対立しているようなところがある。僕には、この問題にクリアな「解」があるのか(ありえるのか)どうかはわからないし、そのような結論を得ることそのものにあまり関心がない。僕にとってはっきりしているのは、「自分」という体験は、「身体を持った自分(A)」と「身体を持たない自分(B)」という、二つの極を持つ軸上のどこかに位置付けられるような様相として記述されうること、あるいは、(A)や(B)に振り切っているような様相の「自分」が現に存在すること、であり、(例えば)(B)の主張に対して「いや、実は、還元的な方向で省察を徹底すれば身体が要件として働いていることは自明である」と説得されたとして、それによって、(B)に振り切れている「自分」に関する体験としての特異性(あるいは(A)との明確な主観的差異)が失われるわけではない。(B)のモードの自分は、「夢見」や「幽体離脱」における「自分」 のあり方を根拠にして、その存在が語られることが多い。でも、そんな極端な状況を例に出すまでもなく、日常空間においても、僕たちは、頻繁に「自分の身体のことを忘れている」。それは、例えば、車を運転している間にとりとめもなく昔のことを回想しているときのことでも思い出せば十分だろう(僕には「ここに至る数分の間、一体どうやって自分が運転していたのか」がわからなくなることが頻繁にある)。こういうことは、複雑な身体の運用が要求されるスポーツにおいても事情は変わらない(スポーツにおいて、身体各部に特定の意識的注意を払う(払わされる)ことがネガティブに作用してしまうことは比較的容易に想像できる)。つまり、複雑な身体運動・身体表現は、「自分の身体のことを忘れる」ことによって達成される。という逆説。

蟹の錯覚


僕の考えでは、HMDにおける一人称体験は、(B)のモードにかなり近接している。さらにいえば、「身体の喪失」は、HMDコンテンツの設計者によって、<現実を忘却するための最強の手段>として積極的に活用されている。僕には、Virtual Realityに関心のある人たちの大多数が、HMDを、<いま=ここ>との接続を切断するための装置として(その多くは無自覚であるにせよ)捉えているように思える。実際、HMDのコンテンツを楽しんでいるときに、自分の物質的な身体に注意を向けるというのは、ちょうど楽しい夢を見ているときに、尿意で目が覚めるような体験に近い。だから、HMD空間の設計にとって、身体という物質性は、魔法の効力を切断する作用を持つノイズのようなものだ。これに関連して、HMD空間内に、顔の前にかざした両手のイメージを、現実の手と位置と正確に重なるように表示させる手法が一般化されて久しい(Leap Motion)。この連関の付与は、一見、「身体という物質性」に注意を向ける触媒として機能するように思える。しかし、(少なくても僕の体感に照らす限り)事態は全くの逆の様相を呈しているように思う。連関性が滞りなく進行すれば進行するほどに、HMDの外側に現に存在しているはずの身体の物質性は、HMD内部の<情報としての身体>へと吸収されていってしまう、、、そのようにして、物質性の付け入る隙はますます閉ざされていく。

ELBOWRIST(回転頭部)



このHMDの中に見える手に投射されているものは、認知神経科学の分野では<所有感>と呼ばれるものである。<所有感>は、自己の投射において、もっとも「自分」と空間的に近接している、「自分」の生々しい投影である。あるいは、<所有感> は、モノに付着した<自分の身体>というラベルである。<所有感>そのものが生々しいのではない。<所有感>を背後から支えている物質的な根拠の(その背後から否応無く滲み出てきてしまう)存在感が生々しいのである。HMD空間の中で構成される<所有感>の感触は、この物質的な根拠が、平板な光学イメージに一挙に代替されてしまうことによる、モノ性の剥奪である。HMDで、自分の手がロボットハンドに置き換えられてしまう異常事態に際しても、<ぞわぞわ感><きもちわるい感>は、ほとんど生じない。HMDなどつけずに体験できる<所有感> の変調(Rubber Hand Illusion)の方が、よほど<やばい>体験ができる。<所有感>そのものが生々しいのではなく、不十分な粘度でかろうじて張り付いている<所有感>というラベルを剥いだ先にある物質的実体が透けて見えてしまうことが生々しいのだということ。これは、HMD体験における『<生々しさ>の欠如問題』を考えるうえで非常に重要だと思う。

5月27日付の追記

と、ここまでが、戦場が終わって、最初の数日、2月初旬を目処にブログにアップすることを目標に断続的に書いていたと思われる内容。その後、ちょっと熱が冷めて、次々に飛び込んでくる締め切りにも忙殺され、そうしている間に授業期間に突入し、学務も増え、気力も減退し、風邪をひき、、、1月の終わりから書いた文章のことなんて完全に忘れていた。

もう4ヶ月も前に書かれたという、まるで自分の手つきとは思えない文章を読み返してみると、しかし、その核心は、たった今、僕が大学の座学で<メディア解剖学>という枠組みで思考していることにとても漸近していることがわかる。僕たちの自意識は、いつだって一つのリアリティーの中に閉じ込められている。そして、リアリティー(=リアルっぽさ)というのは、いつだって不可視のリアルの<一つの現れ方>でしかない、にもかかわらず、それがただ一つのリアルだと誤診してしまう(リアル=リアリティーの誤謬)。小鷹研による「からだの錯覚」の探求は、まず何よりも、物質的な身体とは異なる別の恣意的なイメージに自分の身体所有感を託そうという具体的目標に動機付けられているのであり、したがって、一見すると、そのような目標の達成の先には、複数のリアリティーの乱立した「前衛的」な未来が待ち受けているようにもみえる。

他方で、ここで言っている前衛が究極の理想とするものが、単に、HMDで手のイメージが瞬時に切り替わるような、スマートな<リアリティーの着せ替え>的オペレーションを指すのであれば、そんな未来は、なんというか、やはり、ひどく「くだらない」もののように思えてしまう。僕にとって、何より大事なのは<生々しさ>のことであり、その<生々しさ>は、リアリティーが剥がれて、別のリアリティーに交代する間であったり、交代に失敗する間のわずかな刹那に立ち上がる。あるいは、複数のリアリティーが拮抗して(見かけのうえで)並列的にお互いの領有権を主張し合っている状態において立ち上がる(追記:その意味でモノ性がリアルなのではなく、所有感とモノ性の交代の予感こそが大事なのである)。尿意を覚えつつある夢の外側に意識を向けながらも、同時に夢の内側の世界が消失しないような特異的状態(明晰夢)こそが、前衛と呼ぶに相応しい。それは、原理的に絶対的な不可視領域として想定されるリアル(現実界)の<形式>が、反転を含むような<形式的変換>を経て(<形式>の形式的変換としての<<形式>>)、リアリティーの外側からリアリティを揺さぶるものであるし、同時に、リアリティーの内側からリアリティーの外側への予感を喚起するものでもある。HMD体験から酔いが消え、<リアリティーの着せ替え>が簡単に達成されるような高度な技術的水準へと到達した今現在、いまいちど、そのHMD的なリアリティーを部分的に<剥がす>方向へと舵を切らないといけない。と、小鷹研は、そのように自分たちの向かうべき方向性を見定めようとしている。

IMMIGRANT HEAD(漂流頭部)


さて、以下は、既に過去のものとなった「からだは戦場だよ2018|人間は考えヌ頭部である」の記録集みたいなものである。ここで発表した装置のうちのいくつかは、(去年のRecursive Function Space、Stretchar(m)みたいに)運が良ければ、今後何らかの公的な展示会に出展されることがあるかもしれないし、戦場での公開のみで絶版となってしまうものもあるだろう。今後、小鷹研の活動がどれだけ周囲の関心を獲得するかは相も変わらず未知状態ではあるけれど、少なくとも、未来の小鷹研にとっては大事な資料になる。今後も、展示の後で(たとえそれが4ヶ月の遅延を伴いながらも)、アーカイブしようとする意志のエネルギーが発動するに足るだけの<問題含み>の展示を続けていきたい。

映像

からだは戦場だよ2018|記録篇

からだは戦場だよ2018|予告編


フライヤー

特設サイト(http://lab.kenrikodaka.com/event/2018_KSJ/index.html)

5つの装置

Self-Umbrelling(重力反転計画α)

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各位各論身体論

各位各論身体論(英語):Self-umbrelling (2018) |KENRI KODAKA / KOYO MORI

付記

ほとんどの体験者は、Self-umbrellingで視点が切り替わっている際に、「重力反転」状態にあるということに、自覚を促さない限り気づかない。逆に言うと、それほど、重力反転という事態を<すでにある風景>として、何事もなかったように引き受けている。だから、小鷹研の出し物としては、ある意味で<きれいに>事がすすみ過ぎてしまっているな、という感覚すらある。

しかし、よくよく考えてみてもらいたい。重力の上下が逆さまになってんだぜ。立位状態では、頭を真下に向けるようなコウモリのような姿勢の変換を強いられることを思い出せば、それがいかに「狂った仕様の変更」であるかが理解してもらえるのではないかと思う。寝転がっている状態が有しているものと思われる、こうした(重力反転した自らをあらかじめ内側に孕んでいるかのような)特殊性については、今回の展示を通して、はっきりと認識することができた。今、心理実験の結果がポツポツと出てきている。すごく面白い。早く共有できればと思う。

ELBOWRIST

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付記

この種の展示は、適応に時間がかかるために、よくわからないままに終わってしまうことが多い。それでも映像(記録篇)を見てもらえればわかる通り、少なくない人が、新しい「からだの風景」を獲得するべく、強い好奇心で長い時間、ELBOWRIST空間で試行錯誤を続けていたし、そのうちの何人かは、「後ろを直接に見る」ステージに到達できていた。室田さんも卒業してしまったことだし、今後、ELBOWRISTが外部に出て行くことはないだろう。それでも、約半年ほど、ELBOWRISTの世界にどっぷりと浸かってきた僕の視点世界の中には、背面の風景がもう織り込まれてしまっている。いつか夢の中に出てくればいいけれど。

主に関わった人

室田ゆう

ELASTIC ARM ILLUSION

映像

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各位各論身体論

各位各論身体論(英語):Elastic Arm Illusion (2018) |KOYO MORI / KENRI KODAKA

付記

映像を見てもらえればわかるように、今回のElastic Arm Illusionは、多分、過去の小鷹研の歴史の中でも、もっとも人を選ばず、わかりやすく、そして圧倒的に強力な錯覚体験を生み出していると思う。誇大広告的に言って、これは一種の事件ですらあるかもしれない。これは(一緒にやっている森くんの労に報いるためにも)、ちゃんとしたかたちで外部で発表されなくてはならない。それはわかってる。わかってる。。ただ、外部へのアピールって難しい。がんばろう。

主に関わった人

森光洋

Immigrant Head(漂流頭部)

各位各論身体論

各位各論身体論(英語):Immigrant Head (2018) |KENRI KODAKA / YOSHITERU KAGA

付記

漂流頭部は、バチでパチンと頭を弾かれる体験(flicked separation)と、頭部を後方に傾けるに従い徐々に実の頭部から第二の頭部が離脱して行く体験(pulled separation)に分かれる。前者の「flicked separation」の体験は、間違いなく、今回の展示の中でもっとも個人差の強く顕れているものであった。sensitivityを一つの軸としてプロットできるとすると、はっきりと二極化していたような印象を持っている。

記録篇では、編集の都合上、強い反応をしている人たちだけを集めているので、あれが典型的な反応かというと、もちろんそういうことではない。あくまで、二極化している一方の極のグループの中においてみられる典型的な反応に過ぎない。いずれにせよ、強い反応を示している人たちの表情には、HMDを通して見ているものが(ビジュアルとして)単にセンセーショナルであるということに留まらない、より内側からせまりくる抗いがたい異化作用への対処に追われているような、そのような「からだの錯覚」に固有なかたちで付帯してくる、例の不安な表情が垣間見れる。他方、もう一方の極の人たち(の一部)は、弾かれた頭部に対して、それが自分の身において生じたような感覚を”一切”持たない。まさに、「他人事」である。弾き飛ばされる頭部は、彼らにとっては、その辺に転がっているボールと大差ないというわけだ。

二極化されたうちの一方の強烈な反応と、もう一方の動じない人たちのシベリアのような冷え切った無反応の両者を併せて目撃していると、この両極には、「自分」を「自分」たらしめている根幹の部分で、何かしら乗り越え難い壁のようなものが存在していると感じてしまうことがある。おそらくは、この個人差は、他者に対する共感に関わる尺度の強度が、Rubber Hand Illusionのsensitivityと有意に相関するという知見によって説明できるところが大きいように思う(あるいは、一般の所有感の錯覚よりも、より純粋なかたちで作用しているような気もしてる)。その辺の検証もいつかできればやりたい。

他方で、「pulled spparation」の体験(に伴う異質さの発露)は、それほど人を選んでいなかったのではないかと思う。体験中に、はっきりと「幽体離脱」という言葉を発する人が何人もいた。ここでの<幽体離脱感>というのは、視点の浮遊感以上に、『前方に見えている(そして離脱しつつある)身体の像こそが、自分のあるべき場所である』という信念の強さによって、裏打ちされているように思う。この種の、離れ行く身体に対するretrospectiveな気分(懐かしさ)を生み出すという点では、「immigrant head」は、「Recursive Function Space」「I am a volleyball tossed by my hands」「Self-Umbrelling」における体験を遙かに凌いでいると思う。この差異は、「immigrant head」が、小鷹研の歴史の中で唯一、対面型(face-to-face)ではない幽体離脱を扱っていることが強く関係しているのは明らかと思う。ただ、それだけなのだろうか。「immigrant head」のコンセプトの核には、実は、方法論の水準で、視点を(頭部の動きに同期する)頭部背面表象に置き換えるという画期的なアイデアがある。この点について、形式的に考えてみるのは面白い。なぜなら、「immigrant head」は、幽体離脱的な様相として、「身体的自己」と「視点的自己」を分離するが、そうして分離された「視点的自己」において、さらに「身体的自己」と「視点的自己」が分裂していることになるからだ。「身体的自己」は、自らへと収斂する「視点的自己」を外側に吐き出し、そうして吐き出された「視点的自己」は、再びその内側に(新たな)「身体的自己」を孕んでしまう。あるいは、そのような「身体的自己」を内側に孕むことのない「視点的自己」には、「自分」と呼べるようなリアリティーは付帯していないのではないか。

主に関わった人

加賀芳輝

蟹の錯覚

付記

この「蟹の錯覚」の蟹は、現IAMASの佐藤優太郎くんによるアイデア。源流は、2015年の戦場の出前授業のときに捻り出した「フェンスよじ登りからの紙芝居おじさん」。それ以来、授業やワークショップなどで試しながら、基本的なアイデアは申し分ないけど、もう少し、親しみやすいパッケージに落としていけないものかと、長いこと、ふわふわと模索していた。

2017年度、なかなか味のあるイラストを書くなと思っていた4年の佐藤くんに、卒業研究として、「フェンスよじ登りからの紙芝居おじさん」の続篇をつくる、という(小鷹研にとっての)とっておきのプロジェクトを与えた。ほんと、ギリギリまで苦しんだけど、最後の最後(クリスマス辺りだったか?)、秀逸なイメージが出てきた。「蟹の錯覚」は、まさに物質的な身体とイラストの身体のそれぞれが拮抗しながら、リアリティーの覇権を競い合うような事態であり、小鷹研の考えるところの前衛的な風景そのものである。「蟹の錯覚」が、未来の小鷹研の常設アイテムとなることは間違いない。

イラストとは別に、「蟹と蟹の錯覚の対戦」の制作のarduino周りの設計を、石原さんにお願いした。うちの子供たちは、1時間以上独占して遊んでいたらしく、展示終わってから、しばらくの間「あの蟹のやつを家に持ってきてほしい」と言われ続けていた。

主に関わった人

佐藤優太郎、石原由貴

その他

古谷利裕(画家・評論家)さんによる体験手記

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