『からだは戦場だよ2018Δ』趣旨文

5年目の「からだは戦場だよ」を12月22・23日に(まずは)開催する。展示名を「からだは戦場だよ2018Δ(デルタ)」、副題を「ボディジェクト思考法」として。

からだは戦場だよ2018Δ 予告篇(小鷹研究室)

まずはΔが含意しているものについて。
今年の1月に既に『からだは戦場だよ2018』を開催している以上、同じ展示名を使うことはできない。そして、Δは12月開催のDecemberの頭文字にかかる。そうした事情は、一応のところ事実に即している。他方で、僕がΔで強調したい部分は別にある。仮に今回も例年通り年が明けて1月開催であったとして、それでもなお今回の展示の冠には「2018Δ」という表記を与えることがふさわしい、僕にはそのような感触がある。その理由は、僕が『からだは戦場だよ』を今回でクローズしたいこととも深く関係している。

『からだは戦場だよ』は、その開催の度に、新しい風景を貪欲に開拓していった。それらの軌跡を辿るには、2014年以降の展示の副題を眺めてみることが助けになる。

「からだは戦場だよ(2014)」
「バードウォッチャー・ウォッチング(2015)」
「とりかえしのつかないあそび(2016)」
「人間は考えヌ頭部である(2017)」

小鷹研究室は、『からだは戦場だよ』という名の基調的な囲いの中にあって、その都度、危険なモチーフを新たに見出し、『戦場』の同一性を根拠づける審級へとドラスティックに介入してきた。『戦場』に漂う独特な切迫感の背後には、そのような<とりかえしのつかない>実験精神が伏流している。一方で、僕は、『戦場』がこれまでに担ってきた実験精神を、今回も同じようなかたちで発動することができなかった。端的にいって、前回の戦場「人間は考えヌ頭部である」の時点で、研究室にとって重要な論点は、十分に出尽くされていた。そして、それはなんら、ネガティブなことではない。あまりに深遠な問題系の門をついに潜ってしまったこの段階で、拙速な流動性に身を任せて、一度設定した問題を十分に咀嚼できていないままに、兎にも角にも胃袋の中に流し込んでしまうような粗雑な振る舞いは慎むべきである。だから、今年の戦場の問いは、「からだは戦場だよ2018」から地続き(Δ)な地点にあることを、この際、明確にしておきたい。そして、それゆえに、今回の戦場は、小鷹研究室の濃密な第1期の終結宣言でもあるわけだ。

今年のテーマ「ボディジェクト思考法」が「人間は考えヌ頭部である」から地続きな地点にあるとは、どういうことか。実は、今年の戦場は、随所に「人間は考えヌ頭部である」で提起されたモチーフが再演されている。「視点的自己」はそれ自体として独立に成立しているようにみえて、「自己」を意識の上で結晶化しようとした瞬間に「身体的自己」がその内部に召喚される。「人間は考えヌ頭部である」はその種の<不自由さ>の問題を主題としていた。他方で、意識は隙あらばそうした不都合な事実から目を逸らし、空想的な自己を演じようとする。そのようなかたちで、視点とオブジェクトとしての身体の間で終わりのないいたちごっこが展開される。この過程で、完全に「無」に記すことのできないオブジェクトの、しかし極小化された形態として、我々は<頭部>というモチーフを見出した。したがって、この<頭部>なるものは、「自分」の中に宿る<自由にならないもの>の象徴なのだ。

この<頭部>は、運動感覚(に伴う頭部の回転)と同期的に動作することで自己感を召喚し「body」として振る舞うとともに、放物線を描きながら床に放り出されることで「object」としての本性を露わにする。このような身体に本性的に組み込まれているはずの「body」と「object」の二面性に対して、我々は最近になって「bodiject」という名を与えた。本展で、我々は、身体を「bodiject」として眺めるための方法を、ありとあらゆる角度から提供しようと思う。そして、そのような意味で、本展のテーマ設定である「ボディジェクト思考法」は、「人間は考えヌ頭部である」の含意を身体全体に一般化したものであるにすぎない。そして、本展においても<頭部>は依然として (いや以前に増してより)重要な場所なのである。


さて、初日(12月22日17時〜)は、画家で評論家の古谷利裕さんと、アーティストの金井学氏をゲストとしてお呼びする。お二人は、芸術が芸術であるとはいかなる事態を指すのか、作品が作品足り得るために、作品は現実に対してどのような関係を結ぶべきか、そのような芸術のトートロジーに関わる根源的な問題を、様々なテキストおよび具体的な制作実践を通して深く思索してきた賢人である。僕自身といえば、芸術表現や批評の世界の中で流通している諸概念に対してすっと腑に落ちるような手応えを感じることができないままにこれまで年を重ねてきたようなところがある。さらにいえば、そもそも僕は、美術に関わる一般的な教養を圧倒的に欠いている。だから「芸術に対する感受性」のような計量可能な指標があったとして、僕は、僕自身のそれをかなり低く見積もっていた。他方で、ここ数年、古谷氏のテキストや、旧友である金井学との度重なる対話の中で、どうやら『からだは戦場だよ』でこれまで展開してきた実践と、彼らの考える芸術論はそれほど遠く離れていないのではないのかもしれない、そのような手応えを得るようになった。もっと言えば、僕が「からだの錯覚」の実践を通して追求してきた、<自分>が根底から揺さぶられるようなvividな体験を、彼らは(例えば)絵画を通して享受しているのかもしれない。「からだの錯覚」は、現実の背後で鎮座する身体を身体たらしめている生々しい場所(物質的界面)へと介入し、身体を括弧つきの身体へと退行させる。bodijectというのは、例えばそのような位相のことである。そして、言われてみれば当たり前のことかもしれないが、やはり、芸術も、その本性は、潜在的領域に働きかけることで、顕在的領域であるところの現実を組み替えていること、あるいはその予感を与えることにある。

例えば、古谷氏は「幽体離脱の芸術論のための助走(ÉKRITS)」において、

「セザンヌやキュビズム、マティス、あるいはマネなどの絵画がやっていたことは、図(対象)を描くこと(その描き方)によってその潜在的背景となる地(場や文脈)を分裂させ、地の存在を意識させることでした。あるいは、絵画空間を歪ませることで、決して顕在化することのない「地の分裂」を暗示させるということだったのです。」

と、このように書いている。

あるいは、金井学の東京藝術大学の博士論文『芸術を為すことを巡って 世界の記述形式ーそのトランスダクティブな生成について』は、論文審査において、以下のように評価されている。

「「作品」として顕在化するものが、単独的な出来事性を帯びて出現しながら、同時にその作品を可能にしている世界の潜在的な諸力との関係を露わにするような「個体」となることを彼自身の創作の基礎におくと結論づける。(中略)芸術の自律性を、還元主義的かつ自己完結的な方向に展開するのではなく、それをとりまく諸力の均衡状態であり、生成変化し続けるプロセス(つまり、トランスダクション)として捉え直す理論的見通しをつけた主張は、高い評価に値する。」

ここで語られているのは、「絵画における図」なり、いま・ここに前景化している「世界」なりが、ある特定の場に置かれ相互作用に晒されることによって、そのような<見え>を基礎付けていた「諸力の均衡状態」に歪みが生じ、裂け目が生まれ、ある時点での<見え>が相対化されていくことである。『からだは戦場だよ』は、特定の手続きを通じて、「身体」を基礎付けている調和的なオーケストラの場へと潜入することで、「身体」を、およびそれに紐づけられた<自分>を、括弧付きの身体・自分へと組み替えていくことを主題としてきた。そして、これらは、扱うメディアは違えど、ほとんど<同じ作用>のことについて言及してはいないか。

ここで僕は、あえて「相対化」という言葉を使った。「相対化」にせよ「多様性」にせよ、それらはかつて、マイノリティーへの共感を喚起する政治の言葉として、使い勝手よく流通してきた。他方で、2018年現在の地点に生きる僕たちは、これらの言葉が孕む<嘘>をよく知っている。過度の相対化・多様化は、かえって、より強力な絶対性への信仰に転じてしまう。そのような逆説は、現在進行中の史実である。作品が、現実を相対化する作用を持つのだとして、相対化は、必ずしも現実を組み替え、複数のものたちが拮抗して現実を主張し合うような風景へと結実しない。テクノロジーによって、現実を編集するためのコストが限りなく取り払われた今、異なる現実を呈示しとにもかくにも「作品のようなもの」を呈示してみせることに対する敷居はますます低くなっている。このような状況下で、「相対化」が実際に現実を組み替えるための基礎的な条件についてより深い考察が必要である。よい「相対化」と悪い「相対化」を考えるための道具立てを揃えること、しかし否定神学的な隘路に陥ることなく。以上の命題は、僕にとっては、芸術の問題というよりも、僕自身の研究分野であるVRや認知心理学における、性質の良い「自己の投射」を設えるための実際的・技術的問題として浮上していた、というのが本当の話である。そして、僕にとって、この種の問題を解くために「幽体離脱」の問題系が浮上するのはアカデミックな意味においても、直感的にも必然的な帰結なのである。ここでいう直感には、「幽体離脱」こそが<自分>を組み変えるだけの強度を潜在的に有している投射の形態である、という確信が含まれる(性質の良い投射は必ずしもコントローラブルとは限らない)。そして、以上の意味において「幽体離脱」は芸術の問題でもあると同時に、小鷹研究室がこれまで生み落としてきた幽体離脱VR(「Recursive Function Space」、「Self-umbrelling」、「重力反転大車輪計画」)にも、芸術の萌芽が含まれている。少なくとも、僕は古谷氏がフォーマリズムによる芸術論の再構築の準備をする論考を何度か読み返しながら、そのようなことを想像している。

あらためて、今回、二人のスペシャルなゲストをお呼びすることができて本当に嬉しく思っている。僕としては(少し言い訳がましいが、このトークセッションに向けて、自身の芸術の教養を一からやり直すことなどは残念ながら全く叶うことなく)展示の本体において<例年と遜色のない>不穏な体験を今年の戦場でも送り出すことにひたすら注力してきた。というか、僕のような人間に求められている役割は無論そっちであって、お二人の芸術論に花を咲かせるための良き触媒となることこそが重要なのだ。そして、個人的には、今回の新作の体験の質には、ものすごく満足している。だから、僕の役割はもう9割型、終えた気でいる。当日は、お二人にそれぞれ30分程度話してもらった後で、三人でディスカッションという流れであるが、細かいことは何も決めていない。司会的な役回りは安心と信頼の金井くんにお願いしてる。楽しくも刺激的な時間になるだろう。

展示の記録と周辺、未満|からだは戦場だよ2018

1月31日付のメモ

「人間は考えヌ頭部である(からだは戦場だよ2018)」が終わった。これを書き出しているのは1月31日の帰りの電車の中。どのくらい書くか、今の時点ではわからない。すでに、twitterで、今回の出品物について多くの解説を加えているので、 そこに何か付け加えるものがあるかどうか。書き出してみないとわからない。

重力反転ギャラリー


「人間は考えヌ頭部である」というテーマは12月中旬くらいには決めていたと思う。約15年ぶりに参加した9月の認知科学会(JCSS)の全国大会で、「HMD空間における三人称定位」という、(どのような立場の研究者であってもおそらくは)なんだかよくわからないタイトルで20分くらい話した。そこで僕が問いかけたのは、今後のメディア環境では、もう少し中距離的なインタラクションを想定する必要があるのではないかということ、そして、その場合、自己の投射に関わる新たな区分として(「身体所有感」でも「自己主体感」ともぴったり重なることのない)「幽体離脱」的な位相を考える必要があるのではないか、、、そんな話をした。「幽体離脱」の問題が、世界的にみて、アカデミックな文脈で正統的なアイテムとして扱われるようになって久しい一方で、日本の研究者が、この問題に真正面から取り組んでいるケースというのを見聞きしたことがなかった。そんなわけで、アウェイの洗礼を覚悟して臨んだ発表であったわけだけれど、蓋を開けてみると聴衆の反応が意外と悪くなかったのは、(だから)全く想定外のことであった。とりわけ、発表の後で、その場に居合わせた錚々たる経歴の先生方(「教養のための認知科学」の鈴木宏昭先生、身体性ロボティクスの浅田稔先生、、)からも、ありがたい言葉をいただいた、、このことも大いに励みになった。

天井を見降ろす(1月29日のレクチャーにて)


<自己の投射に関わる区分としての「幽体離脱」的な位相>というのは、身体を失ってもなお「自分」は「自分」であり続けられるか、という、minimal self の問題=「ギリギリの自分問題」と深く関係している。そして、この点に関して、雑な見立てであることを恐れずに言えば、神経科学と現象学はお互いに対立しているようなところがある。僕には、この問題にクリアな「解」があるのか(ありえるのか)どうかはわからないし、そのような結論を得ることそのものにあまり関心がない。僕にとってはっきりしているのは、「自分」という体験は、「身体を持った自分(A)」と「身体を持たない自分(B)」という、二つの極を持つ軸上のどこかに位置付けられるような様相として記述されうること、あるいは、(A)や(B)に振り切っているような様相の「自分」が現に存在すること、であり、(例えば)(B)の主張に対して「いや、実は、還元的な方向で省察を徹底すれば身体が要件として働いていることは自明である」と説得されたとして、それによって、(B)に振り切れている「自分」に関する体験としての特異性(あるいは(A)との明確な主観的差異)が失われるわけではない。(B)のモードの自分は、「夢見」や「幽体離脱」における「自分」 のあり方を根拠にして、その存在が語られることが多い。でも、そんな極端な状況を例に出すまでもなく、日常空間においても、僕たちは、頻繁に「自分の身体のことを忘れている」。それは、例えば、車を運転している間にとりとめもなく昔のことを回想しているときのことでも思い出せば十分だろう(僕には「ここに至る数分の間、一体どうやって自分が運転していたのか」がわからなくなることが頻繁にある)。こういうことは、複雑な身体の運用が要求されるスポーツにおいても事情は変わらない(スポーツにおいて、身体各部に特定の意識的注意を払う(払わされる)ことがネガティブに作用してしまうことは比較的容易に想像できる)。つまり、複雑な身体運動・身体表現は、「自分の身体のことを忘れる」ことによって達成される。という逆説。

蟹の錯覚


僕の考えでは、HMDにおける一人称体験は、(B)のモードにかなり近接している。さらにいえば、「身体の喪失」は、HMDコンテンツの設計者によって、<現実を忘却するための最強の手段>として積極的に活用されている。僕には、Virtual Realityに関心のある人たちの大多数が、HMDを、<いま=ここ>との接続を切断するための装置として(その多くは無自覚であるにせよ)捉えているように思える。実際、HMDのコンテンツを楽しんでいるときに、自分の物質的な身体に注意を向けるというのは、ちょうど楽しい夢を見ているときに、尿意で目が覚めるような体験に近い。だから、HMD空間の設計にとって、身体という物質性は、魔法の効力を切断する作用を持つノイズのようなものだ。これに関連して、HMD空間内に、顔の前にかざした両手のイメージを、現実の手と位置と正確に重なるように表示させる手法が一般化されて久しい(Leap Motion)。この連関の付与は、一見、「身体という物質性」に注意を向ける触媒として機能するように思える。しかし、(少なくても僕の体感に照らす限り)事態は全くの逆の様相を呈しているように思う。連関性が滞りなく進行すれば進行するほどに、HMDの外側に現に存在しているはずの身体の物質性は、HMD内部の<情報としての身体>へと吸収されていってしまう、、、そのようにして、物質性の付け入る隙はますます閉ざされていく。

ELBOWRIST(回転頭部)



このHMDの中に見える手に投射されているものは、認知神経科学の分野では<所有感>と呼ばれるものである。<所有感>は、自己の投射において、もっとも「自分」と空間的に近接している、「自分」の生々しい投影である。あるいは、<所有感> は、モノに付着した<自分の身体>というラベルである。<所有感>そのものが生々しいのではない。<所有感>を背後から支えている物質的な根拠の(その背後から否応無く滲み出てきてしまう)存在感が生々しいのである。HMD空間の中で構成される<所有感>の感触は、この物質的な根拠が、平板な光学イメージに一挙に代替されてしまうことによる、モノ性の剥奪である。HMDで、自分の手がロボットハンドに置き換えられてしまう異常事態に際しても、<ぞわぞわ感><きもちわるい感>は、ほとんど生じない。HMDなどつけずに体験できる<所有感> の変調(Rubber Hand Illusion)の方が、よほど<やばい>体験ができる。<所有感>そのものが生々しいのではなく、不十分な粘度でかろうじて張り付いている<所有感>というラベルを剥いだ先にある物質的実体が透けて見えてしまうことが生々しいのだということ。これは、HMD体験における『<生々しさ>の欠如問題』を考えるうえで非常に重要だと思う。

5月27日付の追記

と、ここまでが、戦場が終わって、最初の数日、2月初旬を目処にブログにアップすることを目標に断続的に書いていたと思われる内容。その後、ちょっと熱が冷めて、次々に飛び込んでくる締め切りにも忙殺され、そうしている間に授業期間に突入し、学務も増え、気力も減退し、風邪をひき、、、1月の終わりから書いた文章のことなんて完全に忘れていた。

もう4ヶ月も前に書かれたという、まるで自分の手つきとは思えない文章を読み返してみると、しかし、その核心は、たった今、僕が大学の座学で<メディア解剖学>という枠組みで思考していることにとても漸近していることがわかる。僕たちの自意識は、いつだって一つのリアリティーの中に閉じ込められている。そして、リアリティー(=リアルっぽさ)というのは、いつだって不可視のリアルの<一つの現れ方>でしかない、にもかかわらず、それがただ一つのリアルだと誤診してしまう(リアル=リアリティーの誤謬)。小鷹研による「からだの錯覚」の探求は、まず何よりも、物質的な身体とは異なる別の恣意的なイメージに自分の身体所有感を託そうという具体的目標に動機付けられているのであり、したがって、一見すると、そのような目標の達成の先には、複数のリアリティーの乱立した「前衛的」な未来が待ち受けているようにもみえる。

他方で、ここで言っている前衛が究極の理想とするものが、単に、HMDで手のイメージが瞬時に切り替わるような、スマートな<リアリティーの着せ替え>的オペレーションを指すのであれば、そんな未来は、なんというか、やはり、ひどく「くだらない」もののように思えてしまう。僕にとって、何より大事なのは<生々しさ>のことであり、その<生々しさ>は、リアリティーが剥がれて、別のリアリティーに交代する間であったり、交代に失敗する間のわずかな刹那に立ち上がる。あるいは、複数のリアリティーが拮抗して(見かけのうえで)並列的にお互いの領有権を主張し合っている状態において立ち上がる(追記:その意味でモノ性がリアルなのではなく、所有感とモノ性の交代の予感こそが大事なのである)。尿意を覚えつつある夢の外側に意識を向けながらも、同時に夢の内側の世界が消失しないような特異的状態(明晰夢)こそが、前衛と呼ぶに相応しい。それは、原理的に絶対的な不可視領域として想定されるリアル(現実界)の<形式>が、反転を含むような<形式的変換>を経て(<形式>の形式的変換としての<<形式>>)、リアリティーの外側からリアリティを揺さぶるものであるし、同時に、リアリティーの内側からリアリティーの外側への予感を喚起するものでもある。HMD体験から酔いが消え、<リアリティーの着せ替え>が簡単に達成されるような高度な技術的水準へと到達した今現在、いまいちど、そのHMD的なリアリティーを部分的に<剥がす>方向へと舵を切らないといけない。と、小鷹研は、そのように自分たちの向かうべき方向性を見定めようとしている。

IMMIGRANT HEAD(漂流頭部)


さて、以下は、既に過去のものとなった「からだは戦場だよ2018|人間は考えヌ頭部である」の記録集みたいなものである。ここで発表した装置のうちのいくつかは、(去年のRecursive Function Space、Stretchar(m)みたいに)運が良ければ、今後何らかの公的な展示会に出展されることがあるかもしれないし、戦場での公開のみで絶版となってしまうものもあるだろう。今後、小鷹研の活動がどれだけ周囲の関心を獲得するかは相も変わらず未知状態ではあるけれど、少なくとも、未来の小鷹研にとっては大事な資料になる。今後も、展示の後で(たとえそれが4ヶ月の遅延を伴いながらも)、アーカイブしようとする意志のエネルギーが発動するに足るだけの<問題含み>の展示を続けていきたい。

映像

からだは戦場だよ2018|記録篇

からだは戦場だよ2018|予告編


フライヤー

特設サイト(http://lab.kenrikodaka.com/event/2018_KSJ/index.html)

5つの装置

Self-Umbrelling(重力反転計画α)

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各位各論身体論

各位各論身体論(英語):Self-umbrelling (2018) |KENRI KODAKA / KOYO MORI

付記

ほとんどの体験者は、Self-umbrellingで視点が切り替わっている際に、「重力反転」状態にあるということに、自覚を促さない限り気づかない。逆に言うと、それほど、重力反転という事態を<すでにある風景>として、何事もなかったように引き受けている。だから、小鷹研の出し物としては、ある意味で<きれいに>事がすすみ過ぎてしまっているな、という感覚すらある。

しかし、よくよく考えてみてもらいたい。重力の上下が逆さまになってんだぜ。立位状態では、頭を真下に向けるようなコウモリのような姿勢の変換を強いられることを思い出せば、それがいかに「狂った仕様の変更」であるかが理解してもらえるのではないかと思う。寝転がっている状態が有しているものと思われる、こうした(重力反転した自らをあらかじめ内側に孕んでいるかのような)特殊性については、今回の展示を通して、はっきりと認識することができた。今、心理実験の結果がポツポツと出てきている。すごく面白い。早く共有できればと思う。

ELBOWRIST

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付記

この種の展示は、適応に時間がかかるために、よくわからないままに終わってしまうことが多い。それでも映像(記録篇)を見てもらえればわかる通り、少なくない人が、新しい「からだの風景」を獲得するべく、強い好奇心で長い時間、ELBOWRIST空間で試行錯誤を続けていたし、そのうちの何人かは、「後ろを直接に見る」ステージに到達できていた。室田さんも卒業してしまったことだし、今後、ELBOWRISTが外部に出て行くことはないだろう。それでも、約半年ほど、ELBOWRISTの世界にどっぷりと浸かってきた僕の視点世界の中には、背面の風景がもう織り込まれてしまっている。いつか夢の中に出てくればいいけれど。

主に関わった人

室田ゆう

ELASTIC ARM ILLUSION

映像

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各位各論身体論

各位各論身体論(英語):Elastic Arm Illusion (2018) |KOYO MORI / KENRI KODAKA

付記

映像を見てもらえればわかるように、今回のElastic Arm Illusionは、多分、過去の小鷹研の歴史の中でも、もっとも人を選ばず、わかりやすく、そして圧倒的に強力な錯覚体験を生み出していると思う。誇大広告的に言って、これは一種の事件ですらあるかもしれない。これは(一緒にやっている森くんの労に報いるためにも)、ちゃんとしたかたちで外部で発表されなくてはならない。それはわかってる。わかってる。。ただ、外部へのアピールって難しい。がんばろう。

主に関わった人

森光洋

Immigrant Head(漂流頭部)

各位各論身体論

各位各論身体論(英語):Immigrant Head (2018) |KENRI KODAKA / YOSHITERU KAGA

付記

漂流頭部は、バチでパチンと頭を弾かれる体験(flicked separation)と、頭部を後方に傾けるに従い徐々に実の頭部から第二の頭部が離脱して行く体験(pulled separation)に分かれる。前者の「flicked separation」の体験は、間違いなく、今回の展示の中でもっとも個人差の強く顕れているものであった。sensitivityを一つの軸としてプロットできるとすると、はっきりと二極化していたような印象を持っている。

記録篇では、編集の都合上、強い反応をしている人たちだけを集めているので、あれが典型的な反応かというと、もちろんそういうことではない。あくまで、二極化している一方の極のグループの中においてみられる典型的な反応に過ぎない。いずれにせよ、強い反応を示している人たちの表情には、HMDを通して見ているものが(ビジュアルとして)単にセンセーショナルであるということに留まらない、より内側からせまりくる抗いがたい異化作用への対処に追われているような、そのような「からだの錯覚」に固有なかたちで付帯してくる、例の不安な表情が垣間見れる。他方、もう一方の極の人たち(の一部)は、弾かれた頭部に対して、それが自分の身において生じたような感覚を”一切”持たない。まさに、「他人事」である。弾き飛ばされる頭部は、彼らにとっては、その辺に転がっているボールと大差ないというわけだ。

二極化されたうちの一方の強烈な反応と、もう一方の動じない人たちのシベリアのような冷え切った無反応の両者を併せて目撃していると、この両極には、「自分」を「自分」たらしめている根幹の部分で、何かしら乗り越え難い壁のようなものが存在していると感じてしまうことがある。おそらくは、この個人差は、他者に対する共感に関わる尺度の強度が、Rubber Hand Illusionのsensitivityと有意に相関するという知見によって説明できるところが大きいように思う(あるいは、一般の所有感の錯覚よりも、より純粋なかたちで作用しているような気もしてる)。その辺の検証もいつかできればやりたい。

他方で、「pulled spparation」の体験(に伴う異質さの発露)は、それほど人を選んでいなかったのではないかと思う。体験中に、はっきりと「幽体離脱」という言葉を発する人が何人もいた。ここでの<幽体離脱感>というのは、視点の浮遊感以上に、『前方に見えている(そして離脱しつつある)身体の像こそが、自分のあるべき場所である』という信念の強さによって、裏打ちされているように思う。この種の、離れ行く身体に対するretrospectiveな気分(懐かしさ)を生み出すという点では、「immigrant head」は、「Recursive Function Space」「I am a volleyball tossed by my hands」「Self-Umbrelling」における体験を遙かに凌いでいると思う。この差異は、「immigrant head」が、小鷹研の歴史の中で唯一、対面型(face-to-face)ではない幽体離脱を扱っていることが強く関係しているのは明らかと思う。ただ、それだけなのだろうか。「immigrant head」のコンセプトの核には、実は、方法論の水準で、視点を(頭部の動きに同期する)頭部背面表象に置き換えるという画期的なアイデアがある。この点について、形式的に考えてみるのは面白い。なぜなら、「immigrant head」は、幽体離脱的な様相として、「身体的自己」と「視点的自己」を分離するが、そうして分離された「視点的自己」において、さらに「身体的自己」と「視点的自己」が分裂していることになるからだ。「身体的自己」は、自らへと収斂する「視点的自己」を外側に吐き出し、そうして吐き出された「視点的自己」は、再びその内側に(新たな)「身体的自己」を孕んでしまう。あるいは、そのような「身体的自己」を内側に孕むことのない「視点的自己」には、「自分」と呼べるようなリアリティーは付帯していないのではないか。

主に関わった人

加賀芳輝

蟹の錯覚

付記

この「蟹の錯覚」の蟹は、現IAMASの佐藤優太郎くんによるアイデア。源流は、2015年の戦場の出前授業のときに捻り出した「フェンスよじ登りからの紙芝居おじさん」。それ以来、授業やワークショップなどで試しながら、基本的なアイデアは申し分ないけど、もう少し、親しみやすいパッケージに落としていけないものかと、長いこと、ふわふわと模索していた。

2017年度、なかなか味のあるイラストを書くなと思っていた4年の佐藤くんに、卒業研究として、「フェンスよじ登りからの紙芝居おじさん」の続篇をつくる、という(小鷹研にとっての)とっておきのプロジェクトを与えた。ほんと、ギリギリまで苦しんだけど、最後の最後(クリスマス辺りだったか?)、秀逸なイメージが出てきた。「蟹の錯覚」は、まさに物質的な身体とイラストの身体のそれぞれが拮抗しながら、リアリティーの覇権を競い合うような事態であり、小鷹研の考えるところの前衛的な風景そのものである。「蟹の錯覚」が、未来の小鷹研の常設アイテムとなることは間違いない。

イラストとは別に、「蟹と蟹の錯覚の対戦」の制作のarduino周りの設計を、石原さんにお願いした。うちの子供たちは、1時間以上独占して遊んでいたらしく、展示終わってから、しばらくの間「あの蟹のやつを家に持ってきてほしい」と言われ続けていた。

主に関わった人

佐藤優太郎、石原由貴

その他

古谷利裕(画家・評論家)さんによる体験手記

展示の記録と周辺|からだは戦場だよ 2017

いま、これを書き出したのが3月の下旬なので、1月下旬の「からだは戦場だよ2017」が終わって、もう2ヶ月近く経ってしまってるわけだ。その間、今回の展示の主要なプレイヤーだった3人も、(つい先日のことだけど)大学(あるいは大学院)を卒業していった。時間というのはおそろしいもので、あの特定の時期、あれだけ小鷹研を振り回していたイベントが、今となっては、もう完全に「過去のもの」となりつつある。まもなく4月に入って授業週間に入ったら、心的空間のなかでそれらの記憶が後退していくスピードはさらに加速するだろうし、そうすると、それらは、まがりなりにも「過去のもの」と呼べていた(すがたかたちのある)ものから、もはや原型を留めない「生前の話」のようなものへと溶解し、それらを元の形に復元するためには、新しい展示を始めるくらいの情熱が要求されるかもしれない。生前にまで遡って、何かを詳細に書き起こすような技術なり情熱なりを僕は持ち合わせていないし、どうせ、来年になったら、また新しい展示がはじまって、今回の展示の記憶なんて、完全に上書きされてしまうだろう。

こんな無駄話で字数をいたずらに埋めるくらいなら、はやく本題に入ればいいと思う。心から。

↓ 本題

さて、かなりの不安要素を残したまま冬休みに入ってしまって、年末年始は悶々としながら実家を転々としていたわけだけど、1月に入って、早朝(始発あるいは準始発)から夜遅くまで、戦場の展示物のためだけに、自分の持っている思考と身体の全てのリソースを捧げるようになって、学生とのコミュニケーションも、もう、うざいくらいに密になって(普段そんなに密じゃないから許されると思う)、それで少しずつ事態が好転してきた。1月中旬あたりで、「今年もいけるぞ」って確信した。いや、ひょっとして画期的にいいのではなんて思ってしまったり。

このツイートなんかは、展示前の、攻撃的なモードがよくでている。でも、今回も前回も、体感的に、予告編を見たうえで判断して来てくれた人が多かったような気がする。予告編すごく大事。

全体的な話として、二日間通して多くのお客さんに恵まれたのは嬉しかった。何より、(とりわけ日曜日がそうだったんだけど)この展示を、じっくり体験しようという明確な目的を持って来てくれている人がとても多かった。これはオフレコかもしれないけど、展示後に、ビッカフェの堀江さんと話していた時に、「今回は、お客さんの質がすごくよかった」と言ってくれたのが嬉しかったし、その言葉には、実際、すごくリアリティーがあった。来てくれた人(作家とか大学関係者が多いわけなんだけど、ごくごく普通の人も居る。でも話していると、ごくごく普通ではないことがわかる)は、みんな、どこかで、何かしら、自分の主観世界の中に眠っている幽霊に対して半ば自覚的な人たちばかりで、そういう人は、みんな独特の雰囲気を持っている。それで自然と話も盛り上がる。だから、イベントとしての「からだは戦場だよ」が醸している独特な雰囲気であったり世間との距離感みたいなものは、ビッカフェという場所と、そこに集まるお客さんによって、かなりの程度、色付けられている。展示物は、そうした磁場の中にあって、自動的に複数的な文脈を獲得していく。3年目にして、こうした共犯的な関係は、決定的なものとなったと思う。

展示の様子については、ぜひとも記録映像を見てほしい。僕と四人の学生が手持ちのカメラで撮影した、それ自体は断片的な瞬間をつなぎ合わせた、粗い粗い映像の集積ではあるけれど、全編を通して見てもらえれば、サイエンスとして捉えようとしても、アートとして捉えようとしても収まりの悪い、小鷹研の展示に特有な雰囲気が十二分に露出していることがわかると思う。


以下で、今回出展した5つの制作物について、備忘も兼ねて、とりわけ制作に至る背景的なところを中心に書き連ねていこうと思う。

「ポールを引っ張り合う、腕が伸びる (仮)」
森光洋

去年やった「アンダーグラウンド・ダイバー」(曽我部さん)の別バージョンであるとともに、自重変化を身体イメージの長さと連動させるシリーズの第二弾。曽我部バージョンにおける「棒にぶら下がる」というアクションを、今回は、実験者を一人介在させて「棒を引っ張り合う」というインタラクションに置き換えた。こういう環境をつくることで、自重変化が、なんらかの形で筋肉の負荷と相関するという点が重要。この種のアプローチ(1:筋肉の負荷量のバロメータとして自重変化に着目すること、2:自重変化と身体イメージのスケールを関連づけること)は、今のところ、小鷹研独自のアイデアだと考えている。自重は、Wii Boardで取得するので、体験者は何も装着する必要がないという点も重要。

今回のインタラクションでは、体験者の側は、ポールを握ったまま、腕をピンと伸ばした状態で、体重を後ろに預けているので(つまり、実験者の側が、ポールを介して、体験者の体重を支えているという関係)、実際のところ、「引っ張り合う」というような能動的な駆け引きが行われているわけではない。だから体験者側のインタラクション感としては、去年の曽我部版「ぶらさがり」と本質的に変わっていなくて、あくまで、受動的な関わり方をしている。それで、なんとなく、この種の受動的に「状況に投げ出されている感」こそが、アブノーマルな身体イメージを自己に帰属できるかどうかを左右する、重要なファクターとなっているという気がしている(この点は、sense of agencyに関する一般的な言説とは逆かもしれない。僕自身は、sense of agencyの生起条件として、一般に「主体性」の関与が強調されすぎているように感じて、その点には違和感を感じている)。

身体の一部が変形していく有様を目の前にしたとき、その変形を促している主体が自己の側にあるのか、外部(他者の側)にあるのか。普段経験したことのないようなイメージの変換を受け入れるためには、イメージの変異自体は自己に帰属させつつも、エージェントは他者に帰属させる、という戦略を、認知はいろんなところでとっているのではないか統合失調性における主体のあり方なんかを絡めていくと、より面白い議論に発展できるかもしれない。

「液体の屈折特性を利用した身体像の光学誘導型グリッチ」
宮川風花

グリッチという手法(というかコンセプト)は、音楽やビジュアルイメージの領域で散々やられてきたことで、それ自体で何か新しいというのは一切ないと思うけれど、宮川さんの卒論の中では、従来のアプローチとの違いとして、「コンピュータを使わない光学誘導型のグリッチ」であること、そして、「グリッチされる対象が鑑賞者自身」という点が強調されている。

前者の「コンピュータを使わない」という点については、去年の秋に「おとなのからだを不安にさせる13のワーク」というワークショップを企画した頃に考えていたことと地続きのところにあって、HMDやらディスプレイやらスクリーンやら、というのは、舞台セットそのものがいかにも非日常的過ぎて、その中でどれほどリアルな表現が志向されていようとも、電源を切ると(HMDを外すと)同時に夢から覚めてしまうようなところがある。だから、日常的な文脈の価値は、メディア空間への依存度が高まれば高まるほどにむしろ高騰していく。一方で、そういった反面教師的なかたちで日常に目を向けていく過程で、コンピュータ的なリアリティーが日常の側に逆輸入されていく、ということが往々にしてある。メディアの教養を内面化してしまった者にとって、「日常が日常として自立している風景」へのアクセス権は完全に失われている。わざわざ日常に属するコンポーネントを使って身体像をグリッチしようとする、「ポスト・グリッチ」的な発想こそが、そうした抜き差しならないメディアと日常空間の関係の一つの顕れである。

いわゆる、「グリッチアート」的なるものと違って、今回の展示では、グリッチが体験者の主観的な身体像そのものに直接的に介入している、という点は強調しても強調しすぎることがない。マネキンの顔にグリッチをかけると、マネキンの顔はバラバラに分離する。しかし、その分離の様相は、極めて安定している。一方で、自分の顔にグリッチをかけたものを鏡を通して見ると、自分の顔のバラバラ加減、そのものが、また時間的にバラバラに移行してしまうので(おそらくは認知過程において、焦点がどこにも安定的に収束できないのだと思う)、いつまで経っても空間的に安定したバラバラの像を結ばない。何よりも、この主観的な像を形成するアルゴリズムは、各人に固有の認知過程の中に埋め込まれているので、決して、カメラによって捕捉することができない。この2種類(マネキン/自分の顔)の鑑賞体験を比較することは、ちょうど他人が自分を観察するようなかたちで、自分が自分自身を観察しようとする際につきまとう原理的な困難を考えるうえで、とてもいい教材となっているように思う。

「動くラマチャンドランミラーボックス(シリーズ)」
石原由貴

これは、石原さんが現在取り組んでいる博士研究の、ちょっとした息抜きみたいな位置付けで、ウゴラマから派生した体験装置で3点を出展した。(石原さん着想の)足をぶらんぶらんさせるというのは、シンプルだけど、面白いアイデアだったと思う。まさに「たったこんだけのことで!!」(@温度さん)、という感じ。

「FIBER FINGERS」
深井剛

まずは、この作品の背景から。

昨年の夏に、新宿のICC(Inter Comunication Center)の展示『メディア・コンシャス』(WEB)の中で、エキソニモの「BODY PAINT」(WEB)を見て、超絶宇宙級の衝撃を受けて、それがきっかけでポスト・インターネットというメディアアート発のムーブメントに注目するようになった。ざっくりな印象で言うと、ディスプレイの中に仮住まい的に構成されたメディア空間(記録されたもの、編集されたものによって構成される空間)と、その外部で、より長いスパンで自立しているようにみえる物理空間との関係を、単純な対立関係としてではなく、相互に依存し合うシステム論的(生態系といってもよい)な視座の上で捉え直そうとしている、という感じだろうか。彼らは、(ディスプレイが現実に/現実がディスプレイに)「溶け合う」というような表現を使ったりする。工学者からは絶対に発想されない、非常に文学的な言葉だな、と思ったりするわけだけど、実際にエキソニモの作品を見たりすると、この「溶け合う」という表現が、(ある場合では)事態をかなり正確に名指したものであるということがわかる。おそらく、美術というのは、多かれ少なかれ、現実と虚構との(本来)抜き差しならない関係を、それぞれの仕方で扱おうとするものであるからして、ポスト・インターネットが、美術の歴史のなかで、何か特別に新しい視座を提供しているというよりは、そういった美術の伝統を、新しい道具を使って、正しく継承しているという言い方が正確なのかもしれない。そのうえで、僕がこの一連のムーブメントに関心を持つのは、ポスト・インターネットが、美術が伝統的に題材にしてきたであろう諸問題を、非常にわかりやすいかたちで鑑賞者に提示してくれているようなところがあって、結果的に、美術という難解な装置の、優れたメタファーとして機能している(その意味では、美術であると同時にメタ美術でもあるような)、と、少なくとも僕にとってはそんな魅力がある。

この「わかりやすい」という印象は、作品の受容において、体感レベルの手応えが果たす役割が大きくなっていること、とも関係している。つまり、(美術のコンテクストを知っていようが知っていまいが発動するような)物理空間とディスプレイ内空間との区別が失効するような錯覚が現に生じること、そのことそのものが作品の価値の重要な側面を構成してしまうこと。これは、ある意味では、美術が自然科学の言語で記述されるような事態を指していることになるんだけど、逆から見れば、自然科学(および工学)が、従来であれば美術にしか処理できなかった主観世界の諸相にメスを入れるようになってきたという側面もあるわけで、つまり、科学の方から美術に歩み寄っているという見方もできる。

さて、この深井くんの「FIBER FINGERS」には、美術発のポスト・インターネットのアイデアと、自然科学発の「からだの錯覚」のアイデアがふんだんに投入されているようなところがあって、小鷹研としてはかなり新しい試みだったんだけど、それらが相互に有機的に絡み合うところまで持っていけたかというと、「からだの錯覚」の部分の設計の甘さもあり、あと一ヶ月くらい時間が欲しかった、というのが正直な気持ち。こういう瞬間瞬間を捉えた写真(↓)はすごく気に入っているんだけど。

この作品では、ラティスの真ん中が長方形にくり抜かれていて、そこに黒い布が貼られている。そのうえで、プロジェクターを使って、そのくり抜かれた領域に、外部との切れ目がないように、あらためてラティスのパターンが投影されている。プロジェクションマッピングにお決まりの、「部屋を真暗にして投影面を際立たせる」というようなことはしていない。あくまで、日常的な光環境のなかに、そっとプロジェクションを忍ばせる。その結果、(これはこの作品にとって決定的に重要なことなんだけど)展示物をぱっと見て、真ん中の部分がプロジェクターで投影されたものであることに気づく人はほとんどいない。ここでは、「投影面」と「投影されたもの」との区別が、少なくてもある質感のレベルにおいて、失効してしまっているのだ。実際の現場では、布にあらかじめラティスのパターンがプリントされているようにみえるというのが一般的な感じ方だと思う。

このプロジェクトにとっては、プロジェクションマッピングを使った表現特有の「かっこいい」演出に対抗するようなメタ表現を模索することが決定的に重要だった。実世界を舞台にするといいながら、自然光はノイズとみなされ、投影面および投影面近傍のオブジェクトの質感(テクスチャ、色感、、)は極力排除される。そういった周囲の涙ぐましいお膳立てのうえで、いかにも現実と乖離したおあつらえ向きのビジュアルが投影される。そのような、空間が本来有している豊潤な資源を黙らせることによって成立する、いかにも全能的なアプローチの急所を狙って、くさびを打ち込むこと。プロジェクションマッピングという表現形態の内側に踏みとどまりながら、プロジェクションマッピング的な表現の魅惑(≒ 呪縛)から距離をとり、あわよくば、その急所を突いて、鮮やかな転覆を図ること。そのようなカウンター表現の基本原理として、「自然光をノイズとみなす」という暗黙の前提を解除するという条件設定は、シンプルでありながら極めて鋭利な切れ味を持っている。来年も、この原理から出発して、新しいメタ表現を模索したいと思う。

「RECURSIVE FUNCTION SPACE」

前年度に信田くんと作った「I am a volleyball tossed by my hands」(映像)から連なる「視点変換シリーズ」の第二弾。「外部から自分を見る」ということにすごく興味があって、ただ認知科学的な観点からすると、鏡やらモニタを通して見る自分に対するリアリティーの”軋み”は、rubber hand illusionでターゲットとなっているような深いレベル(身体所有感)の変調作用からは程遠い。自分自身(のようなもの)と対面状況となったときに、自分がここにいると同時に、そちら側にもいるというような同時性にかかわるリアリティーを、どのような尺度で計量するのか、その方法論については、実は、実験科学の分野でも未だ十分に確立されているとはいえない。そもそも、ナイーブに「外部から自分を見たときにそれが自分だと感じるようなリアリティー」と表現されるようなものが、単に、鏡に映っているものが自分であることを認識することと、どう違うのか。こういった基本的なことについても、僕の知る限り、学術的なレベルで十分に議論されているとはいえないと思う。

僕の考えでは、この種のリアリティーを、「鏡の手前にいる本当の自分」と「鏡の側にある虚像」というような二項関係として捉えるのは、問題を極めて矮小化しているような気がしてならない。というのは、鏡やらモニタを通して自分を見ているような状況において、「自分がこちら側にいる」という手応えは決して崩れることがない。鏡を見るという行為によって、「いま・ここ・わたし」の基盤は、いささかも動揺しないばかりか、むしろ、「自分が現実にここに存在する」ということに対する現状の揺るぎなさをより強化してしまうようなところがあるその基盤は、むしろ鏡に自分が映らない場合にこそ、致命的なダメージを被るだろう)。こういった二項関係においては、虚像が、現実の身体に絶対的に従属してしまっているのだ。

「自分がここにいると同時に、虚像の側にもあるというような同時性」にかかわる感覚。この深遠なるリアリティーを解く鍵は、やはり、主客の方向性が極めて錯綜する幽体離脱にこそ求められるべきである。そのような状況では、幽体する視点だけを借りて、オリジナルの自分の肉体を眺める経験(客体→主体)と、肉体は相変わらず視点の側にありつつも、モニタ上の自分を眺めるような経験(主体→客体)とが、ないまぜに共存するような事態が発生している(にちがいない)。こういう事態に際してはじめて、自分の<自分性>を深いところで支えている何かしらにメスが入り、その副作用として、あるいはその補償として「不安」が生じる。

さて、RFS(Recursive Function Space)については、語るべき周辺的事項がたくさんありすぎて、その割には、前置きが長くなりすぎてしまったので、どうしたものか。なにを語るべきか、あるいは何も語らないべきなのか。

RFSを着想する前段で考えていたことについて、別の視点からもう少し書いてみたい。

先述した、昨夏に訪れたICCで行われた展示「メディア・コンシャス」の出品作家のうちの一人、谷口暁彦氏の「思い過ごすものたち」の記録映像を眺めていたときに、展示空間そのものが、コンピュータ上で編集された3DCGの一つのシーンにみえてしまうような、妙な感覚に襲われた。現実の空間を編集空間として、あたかもソフトウェアを操作するような按配で、種々のオブジェクトを三次元空間の特定の位置に配置していくことで展示空間が組み立てられていく。それらのオブジェクト(=コンポーネント)の間で、お互いの変数を参照しつつも自己の状態を更新するような相互作用を設定することで、展示空間に時間が流れ始める。そのなかで、ある特定の条件を満たすような更新式を定義すると、展示空間のなかで、ある特異的な「効果」が発生する。以上のような描写は、展示空間の風景を、努めて「形式的」な記述へと展開しようとするときの、一つの「切り取り方」であるといえよう。

「思い過ごすものたち」の展示空間では、iPadが決定的に重要なコンポーネントとして機能しており、iPadに映されたCG表現の質感が、iPadの外部に出て、展示空間全体を侵食していくようなところがある。編集空間A(展示空間)の内部に、別の編集空間B(iPad)がコンポーネントとして配置され、そのうえで、編集空間Bが編集空間Aに(or/and AがBに)擬態するような何かしらのインタラクションを埋め込むことによって、編集空間同士の階層性が無化されていく。おそらくは、形式的に記述され得る、数学的な効果として。

例えば、力学系が、時間発展式の内部変数を少しずつ変えていくことで、周期性を示したり、その周期が増減したり、カオスを示したり、一点に収束していったり、、といったかたちでシステムの挙動が分岐していくのを形式的に整理できるのとちょうど同じような按配で、『思い過ごすものたち』の展示空間で起きていたであろう「現実が括弧付きの現実に後退するような錯覚」の生起条件を定式化できないだろうか。極めて形式的な言語体系である論理学において、自己言及性の侵入の深さを変えていくことで、システムの完全性が維持されたり損なわれたり(パラドックスを回避したり、できなかったり)という分岐のあり方が、やはり厳密に定式化できるのと同じように、人間の主観において現実と虚構の境界に対する認識が安定していたり不安定になったり、というあたりの分岐点の様相を、展示空間内の複数のコンポーネント間の再帰的なインタラクションとして、形式的に記述できないだろうか。

自己言及性の問題は、当然ながら認知の問題(ホムンクルスの無限後退)とも強く絡んでいる。したがって、美術の領域で、しかし徹底的に形式的なやり方で、「展示する空間」と「展示される空間」の階層性を無化するような表現を志向することは、結果的に、「イメージする自分」と「イメージされた自分」とが入れ子的に構成されてしまう宿命を負った、意識を持った僕たちが、普段どうやって離人症的な不安を回避できているのか、あるいは、どのような条件で明晰夢が発生するのか、といった認知システムに特有な問題を解くための手がかりを与えてくる可能性がある。と、まぁ、この話は、結構な広がりを持っているはずなのだ。

この辺の話は、部分的に、展示初日の出前講義でもやった。

以下が、その時、話題に出した作品たち。

  • the truman show
  • ジャルジャル『一人漫才』 映像 『変な奴』 映像
  • 世にも奇妙な物語 『プリズナー』 映像
  • エキソニモ『BODY PAINT』 WEB
  • 谷口暁彦『思い過ごすものたち』 映像
  • 永田康祐『The way it is』映像

とりわけ、ちょうどRFSを作っている最中の年末に、トーキョーワンダーサイトまで見に行った、永田康祐さんの展示『Therapist』は、総体として、「記録されたもの」の蘇生をめぐって、記録メディアと物理世界のオブジェクトを等価なコンポーネントとしてとらえながら、空間全体を形式的に記述しようとする強い意志が感じられて、とても印象的であったと同時に、すごく刺激を受けてきた。

いきなり話が飛ぶようだけど、出前講義の中心的な話題として、ジャルジャルのメタ漫才の話をした。ツッコミを「現実の規範を代弁するプレイヤー」として、ボケを「こうであったかもしれない現実を提示する虚構の側のプレイヤー」であるとみなすと、漫才もまた、現実と虚構の間の抜き差しならぬ関係を、多様なかたちで記述できる可能性を持っていることがわかるし、やり方によっては、硬直した現実に対してソリッドに風穴を開けることも可能なはずだ。しかし、ほとんどの漫才なりコントは、「鏡を見て、自分がここにいることを安心する」のと同じように、ただ単に虚構を茶化しつつ現状追認で終わってしまうことが多いため、知的な領域で議論される機会になかなか恵まれていないように思う。

この点で、ジャルジャルの漫才なりコントの構造が有しているメタ構造的な特異性は際立っている。例えば、このコントとか。

僕は、かなり初期からジャルジャルの動向を追い続けているのだけれど、最近になって、ようやく、彼らの特異性を言葉にできるかもしれないという手応えをつかみつつある。今回は、RFSを理解するための近道になればといいと思って、思い切って、レクチャーの中の中心的な教材としてとりあげてみたし、結構、反応もよかったと思う。実は、RFSは、ジャルジャルの最新のネタである「一人漫才」におけるボケとツッコミの関係を、「イメージする自己」と「イメージされる自己」との関係に置き換えて、仮想空間の中で再構成したもの、というような切り取り方も可能だったりすので、その辺の関連性を、図式的に説明していったつもり。この(漫才と仮想世界を関連付けて説明する)方法は、僕自身もやっててすごく楽しかったので、今後、大学の授業の中で積極的に取り入れていきたいと思っている。

こんな具合に、自分が面白いと思えるものについて、ジャンルとか関係なく、それらが基底において何を共有しているのかについて問い続けること。それによって、たまに、思ってもみないところに補助線が引かれて、見たことのない風景が立ち上がることがある。「面白い!」のあとに「なぜ面白いのか」をしつこく問い続けることが、僕にとってはすごく大事なこと。

まだ全然つづきですが、さすがに10000字を目前に控えているので(赤を入れていたら10000字超過しました)、筆を置くことにします。展示のまとめというよりは、2016年度に小鷹研が思考していたことを、清算するいい機会となりました。(小鷹)

告知:からだは戦場だよ2017 とりかえしのつかないあそび

 

予告

 

Invitation

三年目のからだは戦場だよ。
テーマは「とりかえしのつかないあそび」です。

例えば、「天狗」(注:鼻がいたずらに長い点を除けば、人間であるとみなすことが許されるようなある種のカテゴリー)であるとはどういうことかを知るために、天狗に関する歴史的文献をまじまじと読むのでもなく、天狗のイラストを粛々とトレースするのでもなく、あるいは誂え向きの天狗のお面をふかぶかと被るのでもなく、、ダイレクトに天狗に変身できるのであれば、それが一番てっとりばやい。

絵本の中のお話なんかだと、そうした変身のカードは(たいていは無垢なこどもによって)何の躊躇もなく行使されるわけですが、しかし、もし現実にそんな機会(というか危機)が訪れようものならば、どうだろう。たとえ、それが(稀にいるかどうかもわからない)天狗への変身願望に取り憑かれた大人の身に起こったのだとしても、現実的な観点からすると、むしろ変身の後始末にこそ目を向けるべきであり、つまるところ、仮に変身できたとしてその後に滞りなく元の姿に戻ることができるのか否かについての十分な確認を怠るべきではない。ここでは、絵本的に約束された楽観的な結末を期待するのは単なる甘えとみなされるのです。

ある男が、『うらしま』と題された、天狗への変態のための呪術を扱う古文書を偶然発見するところから現実の物語は始まります。その男は鼻の低いことにコンプレックスを持っていたのかもしれない。その書に記されていた変身のための手順を忠実に実行すると、鼻はにょきにょきと立派に成長し、やがてその男は天狗の世界で新たな仲間として迎え入れられます。それから数ヶ月もの間、男天狗との友情やら女天狗とのロマンスなどのお約束に巻き込まれながらも、しかし(というか、やはりというか、今さらというか)突然に彼方に残してきた家族のことを思い出さずにはおれなくなり、強烈な望郷の念にかられてしまう。天狗との別れを惜しみ惜しまれつつも、やはり古文書の末尾にひっそりと記されていた秘伝の呪文を唱えることで、その男は無事にもとの鼻を取り戻し、家族に再び温かく迎え入れられました(とさ)。めでたしめでたし。

しかし、物語にはつづきがあります(現実の物語の中に挿入される終わりの切断面(<とさ>)はいつだって留保つきなのです)。確かに、顔の造形はもとに戻った。周囲の人間もこれまでと何一つ変わらないかたちで接してくれている。とりわけ、写真で判別するかぎりにおいて鼻の造形は変身前と何一つ変わらない。しかし本当のことを言うと何かが違う。否、それどころの話ではない。「本当のこと」なんて勿体ぶった表現を持ち出すまでもないし、「何かが違う」なんていう穏当な表現では全く足りない。事態はむしろ全く逆に振り切れているのだから。『写真で判別するかぎりにおいて鼻の造形は変身前と何一つ変わらないという一点を除いたありとあらゆる意味で鼻は依然として不恰好に長いままなのだから

彼は、その長い鼻を抱えたまま、あるいは、長い鼻を持っているという認識を孤独に抱えたまま、そして、あの古文書が『うらしま』と題されていたことの意味を時折かみしめながら、その後の半生を、(鼻の問題を除けば)特に大きな障害もなく過ごしました(とさ)。

閑話休題

大きなスクリーンがあれば大多数が一気に経験できる錯視のようなものと違って、<からだ>の錯覚は、各人の身体のまわりの、ごくごくパーソナルな空間の中で繰り広げられる相互作用の中からしか生まれません。ある人の<からだ>に直に響くような錯覚を届けるためには、その人のすぐそばまで、息遣いが聞こえてくるところまでぐっと寄っていかないといけない。あるいは、誰かが(どういう動機かは不明だけれど)いつもと違う<からだ>を手に入れようとするのであれば、その人自身が、その「からだのようなもの」のすぐ近くにまで出向いて、自分が占有している物理空間を生贄として差し出さなければならない。そうして、<からだ>の錯覚は、新しい容れ物とひきかえに「ひょっとすると、自分のもともとの身体を永久に失ってしまうかもしれない」という危険と隣り合わせの闘争の場となります。それは、人生で何度目かの幽体離脱に遭遇した人が、久しぶりに手に入れた時限付きの自由で胸を震わせる一方で、「今回こそは二度と自分の肉体に戻ってこれなくなるかもしれない」、そんな不安と闘うのと似ています。

小鷹研究室は、こうした(あらかじめ各自の認知機能にビルトインされた)呪術の仕様を科学的に探求する一方で、呪術の使い手としての作法を身につけることにも多大なる関心を寄せています。「からだは戦場だよ」は、その公開実験の場と考えています。控えめに言っても、こうした「とりかえしのつかない遊び」を(しかし)遊びとして、まとまったかたちで体験できる場所というのは、全国的にも、ビッカフェの「からだは戦場だよ」だけと思います。今年も、HMD(ヘッドマウントディスプレイ)・プロジェクションマッピングといった現代的なVR(バーチャル・リアリティ)関連のテクノロージー勢に対して、鏡・水という何の変哲もない自然物が思ってもみないかたちで応酬するという小鷹研らしいカオスな様相を呈しています。1年のうちのたった2日間です。ぜひ、生の反応を聞かせてください。お待ちしています。<(_ _)>

(こだか)

 

展示
からだは戦場だよ2017 とりかえしのつかない遊び
|会期| 2017年1月28日(土)12時 – 19時30分
2017年1月29日(日)12時 – 17時
|場所| やながせ倉庫・ビッカフェ
岐阜県岐阜市弥生町10 やながせ倉庫202
googlemap
|料金| ビッカフェにてワンオーダーお願いします。
関連イベント
出前講義 「虚構(遊び)が現実に転じるとき」(小鷹研理)
|日時| 2017年1月28日(土)17時 – 18時30分
(いつもより時間が早いです。お間違えなく)
|料金| 500円+ワンドリンク
出品者

石原由貴(博士後期課程)、森光洋(修士2年)、深井剛、宮川風花(学部4年)
小鷹研理(准教授)

企画

ビッカフェ(やながせ倉庫) FACEBOOK
小鷹研究室(名古屋市立大学芸術工学部情報環境デザイン学科) WEB

イラスト協力

もこうぼう WEB

一部助成

科学研究費「モーフィングに基づく非相似的な身体像の誘発に関する研究」WEB