ここで僕は、あえて「相対化」という言葉を使った。「相対化」にせよ「多様性」にせよ、それらはかつて、マイノリティーへの共感を喚起する政治の言葉として、使い勝手よく流通してきた。他方で、2018年現在の地点に生きる僕たちは、これらの言葉が孕む<嘘>をよく知っている。過度の相対化・多様化は、かえって、より強力な絶対性への信仰に転じてしまう。そのような逆説は、現在進行中の史実である。作品が、現実を相対化する作用を持つのだとして、相対化は、必ずしも現実を組み替え、複数のものたちが拮抗して現実を主張し合うような風景へと結実しない。テクノロジーによって、現実を編集するためのコストが限りなく取り払われた今、異なる現実を呈示しとにもかくにも「作品のようなもの」を呈示してみせることに対する敷居はますます低くなっている。このような状況下で、「相対化」が実際に現実を組み替えるための基礎的な条件についてより深い考察が必要である。よい「相対化」と悪い「相対化」を考えるための道具立てを揃えること、しかし否定神学的な隘路に陥ることなく。以上の命題は、僕にとっては、芸術の問題というよりも、僕自身の研究分野であるVRや認知心理学における、性質の良い「自己の投射」を設えるための実際的・技術的問題として浮上していた、というのが本当の話である。そして、僕にとって、この種の問題を解くために「幽体離脱」の問題系が浮上するのはアカデミックな意味においても、直感的にも必然的な帰結なのである。ここでいう直感には、「幽体離脱」こそが<自分>を組み変えるだけの強度を潜在的に有している投射の形態である、という確信が含まれる(性質の良い投射は必ずしもコントローラブルとは限らない)。そして、以上の意味において「幽体離脱」は芸術の問題でもあると同時に、小鷹研究室がこれまで生み落としてきた幽体離脱VR(「Recursive Function Space」、「Self-umbrelling」、「重力反転大車輪計画」)にも、芸術の萌芽が含まれている。少なくとも、僕は古谷氏がフォーマリズムによる芸術論の再構築の準備をする論考を何度か読み返しながら、そのようなことを想像している。
このHMDの中に見える手に投射されているものは、認知神経科学の分野では<所有感>と呼ばれるものである。<所有感>は、自己の投射において、もっとも「自分」と空間的に近接している、「自分」の生々しい投影である。あるいは、<所有感> は、モノに付着した<自分の身体>というラベルである。<所有感>そのものが生々しいのではない。<所有感>を背後から支えている物質的な根拠の(その背後から否応無く滲み出てきてしまう)存在感が生々しいのである。HMD空間の中で構成される<所有感>の感触は、この物質的な根拠が、平板な光学イメージに一挙に代替されてしまうことによる、モノ性の剥奪である。HMDで、自分の手がロボットハンドに置き換えられてしまう異常事態に際しても、<ぞわぞわ感><きもちわるい感>は、ほとんど生じない。HMDなどつけずに体験できる<所有感> の変調(Rubber Hand Illusion)の方が、よほど<やばい>体験ができる。<所有感>そのものが生々しいのではなく、不十分な粘度でかろうじて張り付いている<所有感>というラベルを剥いだ先にある物質的実体が透けて見えてしまうことが生々しいのだということ。これは、HMD体験における『<生々しさ>の欠如問題』を考えるうえで非常に重要だと思う。
さて、以下は、既に過去のものとなった「からだは戦場だよ2018|人間は考えヌ頭部である」の記録集みたいなものである。ここで発表した装置のうちのいくつかは、(去年のRecursive Function Space、Stretchar(m)みたいに)運が良ければ、今後何らかの公的な展示会に出展されることがあるかもしれないし、戦場での公開のみで絶版となってしまうものもあるだろう。今後、小鷹研の活動がどれだけ周囲の関心を獲得するかは相も変わらず未知状態ではあるけれど、少なくとも、未来の小鷹研にとっては大事な資料になる。今後も、展示の後で(たとえそれが4ヶ月の遅延を伴いながらも)、アーカイブしようとする意志のエネルギーが発動するに足るだけの<問題含み>の展示を続けていきたい。
「からだは戦場だよ2018」の予告第三弾は『elastic arm illusion』です。小鷹研の連作「腕が伸びる」シリーズの新作です。仰向けでいる人の腕を、ポールを介して引っ張り上げます。この<引っ張られた度合い>に応じて、HMD上に一人称視点で表示される腕の長さが伸び縮みする、というものです。 pic.twitter.com/5KrwYgGI6e
映像を見てもらえればわかるように、今回のElastic Arm Illusionは、多分、過去の小鷹研の歴史の中でも、もっとも人を選ばず、わかりやすく、そして圧倒的に強力な錯覚体験を生み出していると思う。誇大広告的に言って、これは一種の事件ですらあるかもしれない。これは(一緒にやっている森くんの労に報いるためにも)、ちゃんとしたかたちで外部で発表されなくてはならない。それはわかってる。わかってる。。ただ、外部へのアピールって難しい。がんばろう。
二極化されたうちの一方の強烈な反応と、もう一方の動じない人たちのシベリアのような冷え切った無反応の両者を併せて目撃していると、この両極には、「自分」を「自分」たらしめている根幹の部分で、何かしら乗り越え難い壁のようなものが存在していると感じてしまうことがある。おそらくは、この個人差は、他者に対する共感に関わる尺度の強度が、Rubber Hand Illusionのsensitivityと有意に相関するという知見によって説明できるところが大きいように思う(あるいは、一般の所有感の錯覚よりも、より純粋なかたちで作用しているような気もしてる)。その辺の検証もいつかできればやりたい。
他方で、「pulled spparation」の体験(に伴う異質さの発露)は、それほど人を選んでいなかったのではないかと思う。体験中に、はっきりと「幽体離脱」という言葉を発する人が何人もいた。ここでの<幽体離脱感>というのは、視点の浮遊感以上に、『前方に見えている(そして離脱しつつある)身体の像こそが、自分のあるべき場所である』という信念の強さによって、裏打ちされているように思う。この種の、離れ行く身体に対するretrospectiveな気分(懐かしさ)を生み出すという点では、「immigrant head」は、「Recursive Function Space」「I am a volleyball tossed by my hands」「Self-Umbrelling」における体験を遙かに凌いでいると思う。この差異は、「immigrant head」が、小鷹研の歴史の中で唯一、対面型(face-to-face)ではない幽体離脱を扱っていることが強く関係しているのは明らかと思う。ただ、それだけなのだろうか。「immigrant head」のコンセプトの核には、実は、方法論の水準で、視点を(頭部の動きに同期する)頭部背面表象に置き換えるという画期的なアイデアがある。この点について、形式的に考えてみるのは面白い。なぜなら、「immigrant head」は、幽体離脱的な様相として、「身体的自己」と「視点的自己」を分離するが、そうして分離された「視点的自己」において、さらに「身体的自己」と「視点的自己」が分裂していることになるからだ。「身体的自己」は、自らへと収斂する「視点的自己」を外側に吐き出し、そうして吐き出された「視点的自己」は、再びその内側に(新たな)「身体的自己」を孕んでしまう。あるいは、そのような「身体的自己」を内側に孕むことのない「視点的自己」には、「自分」と呼べるようなリアリティーは付帯していないのではないか。
今回のインタラクションでは、体験者の側は、ポールを握ったまま、腕をピンと伸ばした状態で、体重を後ろに預けているので(つまり、実験者の側が、ポールを介して、体験者の体重を支えているという関係)、実際のところ、「引っ張り合う」というような能動的な駆け引きが行われているわけではない。だから体験者側のインタラクション感としては、去年の曽我部版「ぶらさがり」と本質的に変わっていなくて、あくまで、受動的な関わり方をしている。それで、なんとなく、この種の受動的に「状況に投げ出されている感」こそが、アブノーマルな身体イメージを自己に帰属できるかどうかを左右する、重要なファクターとなっているという気がしている(この点は、sense of agencyに関する一般的な言説とは逆かもしれない。僕自身は、sense of agencyの生起条件として、一般に「主体性」の関与が強調されすぎているように感じて、その点には違和感を感じている)。
前年度に信田くんと作った「I am a volleyball tossed by my hands」(映像)から連なる「視点変換シリーズ」の第二弾。「外部から自分を見る」ということにすごく興味があって、ただ認知科学的な観点からすると、鏡やらモニタを通して見る自分に対するリアリティーの”軋み”は、rubber hand illusionでターゲットとなっているような深いレベル(身体所有感)の変調作用からは程遠い。自分自身(のようなもの)と対面状況となったときに、自分がここにいると同時に、そちら側にもいるというような同時性にかかわるリアリティーを、どのような尺度で計量するのか、その方法論については、実は、実験科学の分野でも未だ十分に確立されているとはいえない。そもそも、ナイーブに「外部から自分を見たときにそれが自分だと感じるようなリアリティー」と表現されるようなものが、単に、鏡に映っているものが自分であることを認識することと、どう違うのか。こういった基本的なことについても、僕の知る限り、学術的なレベルで十分に議論されているとはいえないと思う。