例年、小鷹研究室のメディア系のデモは3月に行われるインタラクションに出展していたのですが、昨年度の小鷹研の主要な成果物である二つのHMDの仕事(『Recursive Function Space』、『Stretchar(m)』)が完成したのが年明けであったために、年末の締切に間に合わず、これまで、どこにも投稿できず、宙に浮いたままの状態でした。
いろいろ、サーベイしている中で、この手と影の空間的配置が、「からだの錯覚」研究においてmoving rubber hand illusionと呼ばれるカテゴリーに対応していることがわかった。そのうえで、(これまでのMRHIの研究でラバーハンドとしての役割をなしてきた)ロボットハンドや人形、CGの手とは異なる、影の特殊性というのも、どうやら主張できそうだな、というのもわかってきた。端的に言って、影は、影自体として、強い引力を持っている。一緒に触るとか、一緒に動かすとか、そういうややこしいことする以前に、それ自体としてもっているイメージの力が確かにある。影と鏡、いろんな意味で偉大です。この辺の話は、プレスリリースに(部分的にですが)書いておいたので、よろしければ見ておいてください。映像も〜!!
(論文、ほんとは、もっといっぱい出したい。頑張ります。)
発表論文
Kodaka, K., & Kanazawa, A. (2017). Innocent Body-Shadow Mimics Physical Body. I-Perception, 8(3), 204166951770652. http://doi.org/10.1177/2041669517706520 OPEN-ACCESS
この論考では、柴崎友香の小説『ビリジアン』の主人公である山田解の、小説全体における時系列的な配置のあり方が主題的に論じられるのですが、山田解であるところの<わたし>の様相を詳細に読み解くうえでの「入り口」として、文学とは異なる形式を持つ領域で発表された3つの作品・装置の体験における<わたし>の変異が考察されています。このうちの2つが、ICCで昨年、一年間に渡って行われた展示『メディア・コンシャス』のなかで出品されていた、津田道子さんの「あなたは、翌日私に会いにそこに戻ってくるでしょう。」、谷口暁彦さん「私のようなもの/見ることについて」。そして、最後の一つが、小鷹研究室の「Recursive Function Space」(以下、RFS)ということになります。
ここでは、論考の中身については詳しく触れませんが、論考の一つの論点である、「<わたし>が<ここ>にいること(に関わる感覚)」が、「<わたし>がこの<わたし>であること(に関わる感覚)」と分かち難く結びついてしまっている、このいわば「自意識にとっての公理的な基底」に対してフィクションがどう介入するか、という問題意識は、「sense of self」という概念が徐々に市民権を得つつある(つまり、「sense of self」を操作可能な一つの変数とみなそうとする)実験科学の分野においても、とてもアクチュアルなものであるといえます。(一方で)めぼしい”物証”が期待できないであろう、こうした難しい課題を捌いていくうえで、そもそもこれまで、人類が芸術を(<わたし>がフィクションを)どのように受容してきたか(受容しているか)を参照項とすることは、重要な足がかりとなるはずです。小説世界における<わたし>が、(ちょうど『ビリジアン』で生じていたように)物理世界の時空とは異なる原理で、柔軟に変形し、不連続的に転換し、入れ替わり、、そのなかに読者である<わたし>が参加し、ときに<わたし>と<わたし>が共鳴する(そして、読者である<わたし>の組成が変調し、再編成されていく)。ここで生じているであろう、<わたし>と<わたし>が関係し合うパターンを、言語的あるいは数学的に掬い出し、その記述の一般性の強度を、異なるメディアにおいて成立している同型的なパターンを掬い出していくことによって、保証していこうとする試み。
今回のインタラクションでは、体験者の側は、ポールを握ったまま、腕をピンと伸ばした状態で、体重を後ろに預けているので(つまり、実験者の側が、ポールを介して、体験者の体重を支えているという関係)、実際のところ、「引っ張り合う」というような能動的な駆け引きが行われているわけではない。だから体験者側のインタラクション感としては、去年の曽我部版「ぶらさがり」と本質的に変わっていなくて、あくまで、受動的な関わり方をしている。それで、なんとなく、この種の受動的に「状況に投げ出されている感」こそが、アブノーマルな身体イメージを自己に帰属できるかどうかを左右する、重要なファクターとなっているという気がしている(この点は、sense of agencyに関する一般的な言説とは逆かもしれない。僕自身は、sense of agencyの生起条件として、一般に「主体性」の関与が強調されすぎているように感じて、その点には違和感を感じている)。
前年度に信田くんと作った「I am a volleyball tossed by my hands」(映像)から連なる「視点変換シリーズ」の第二弾。「外部から自分を見る」ということにすごく興味があって、ただ認知科学的な観点からすると、鏡やらモニタを通して見る自分に対するリアリティーの”軋み”は、rubber hand illusionでターゲットとなっているような深いレベル(身体所有感)の変調作用からは程遠い。自分自身(のようなもの)と対面状況となったときに、自分がここにいると同時に、そちら側にもいるというような同時性にかかわるリアリティーを、どのような尺度で計量するのか、その方法論については、実は、実験科学の分野でも未だ十分に確立されているとはいえない。そもそも、ナイーブに「外部から自分を見たときにそれが自分だと感じるようなリアリティー」と表現されるようなものが、単に、鏡に映っているものが自分であることを認識することと、どう違うのか。こういった基本的なことについても、僕の知る限り、学術的なレベルで十分に議論されているとはいえないと思う。