展示の記録と周辺|からだは戦場だよ 2017

いま、これを書き出したのが3月の下旬なので、1月下旬の「からだは戦場だよ2017」が終わって、もう2ヶ月近く経ってしまってるわけだ。その間、今回の展示の主要なプレイヤーだった3人も、(つい先日のことだけど)大学(あるいは大学院)を卒業していった。時間というのはおそろしいもので、あの特定の時期、あれだけ小鷹研を振り回していたイベントが、今となっては、もう完全に「過去のもの」となりつつある。まもなく4月に入って授業週間に入ったら、心的空間のなかでそれらの記憶が後退していくスピードはさらに加速するだろうし、そうすると、それらは、まがりなりにも「過去のもの」と呼べていた(すがたかたちのある)ものから、もはや原型を留めない「生前の話」のようなものへと溶解し、それらを元の形に復元するためには、新しい展示を始めるくらいの情熱が要求されるかもしれない。生前にまで遡って、何かを詳細に書き起こすような技術なり情熱なりを僕は持ち合わせていないし、どうせ、来年になったら、また新しい展示がはじまって、今回の展示の記憶なんて、完全に上書きされてしまうだろう。

こんな無駄話で字数をいたずらに埋めるくらいなら、はやく本題に入ればいいと思う。心から。

↓ 本題

さて、かなりの不安要素を残したまま冬休みに入ってしまって、年末年始は悶々としながら実家を転々としていたわけだけど、1月に入って、早朝(始発あるいは準始発)から夜遅くまで、戦場の展示物のためだけに、自分の持っている思考と身体の全てのリソースを捧げるようになって、学生とのコミュニケーションも、もう、うざいくらいに密になって(普段そんなに密じゃないから許されると思う)、それで少しずつ事態が好転してきた。1月中旬あたりで、「今年もいけるぞ」って確信した。いや、ひょっとして画期的にいいのではなんて思ってしまったり。

このツイートなんかは、展示前の、攻撃的なモードがよくでている。でも、今回も前回も、体感的に、予告編を見たうえで判断して来てくれた人が多かったような気がする。予告編すごく大事。

全体的な話として、二日間通して多くのお客さんに恵まれたのは嬉しかった。何より、(とりわけ日曜日がそうだったんだけど)この展示を、じっくり体験しようという明確な目的を持って来てくれている人がとても多かった。これはオフレコかもしれないけど、展示後に、ビッカフェの堀江さんと話していた時に、「今回は、お客さんの質がすごくよかった」と言ってくれたのが嬉しかったし、その言葉には、実際、すごくリアリティーがあった。来てくれた人(作家とか大学関係者が多いわけなんだけど、ごくごく普通の人も居る。でも話していると、ごくごく普通ではないことがわかる)は、みんな、どこかで、何かしら、自分の主観世界の中に眠っている幽霊に対して半ば自覚的な人たちばかりで、そういう人は、みんな独特の雰囲気を持っている。それで自然と話も盛り上がる。だから、イベントとしての「からだは戦場だよ」が醸している独特な雰囲気であったり世間との距離感みたいなものは、ビッカフェという場所と、そこに集まるお客さんによって、かなりの程度、色付けられている。展示物は、そうした磁場の中にあって、自動的に複数的な文脈を獲得していく。3年目にして、こうした共犯的な関係は、決定的なものとなったと思う。

展示の様子については、ぜひとも記録映像を見てほしい。僕と四人の学生が手持ちのカメラで撮影した、それ自体は断片的な瞬間をつなぎ合わせた、粗い粗い映像の集積ではあるけれど、全編を通して見てもらえれば、サイエンスとして捉えようとしても、アートとして捉えようとしても収まりの悪い、小鷹研の展示に特有な雰囲気が十二分に露出していることがわかると思う。


以下で、今回出展した5つの制作物について、備忘も兼ねて、とりわけ制作に至る背景的なところを中心に書き連ねていこうと思う。

「ポールを引っ張り合う、腕が伸びる (仮)」
森光洋

去年やった「アンダーグラウンド・ダイバー」(曽我部さん)の別バージョンであるとともに、自重変化を身体イメージの長さと連動させるシリーズの第二弾。曽我部バージョンにおける「棒にぶら下がる」というアクションを、今回は、実験者を一人介在させて「棒を引っ張り合う」というインタラクションに置き換えた。こういう環境をつくることで、自重変化が、なんらかの形で筋肉の負荷と相関するという点が重要。この種のアプローチ(1:筋肉の負荷量のバロメータとして自重変化に着目すること、2:自重変化と身体イメージのスケールを関連づけること)は、今のところ、小鷹研独自のアイデアだと考えている。自重は、Wii Boardで取得するので、体験者は何も装着する必要がないという点も重要。

今回のインタラクションでは、体験者の側は、ポールを握ったまま、腕をピンと伸ばした状態で、体重を後ろに預けているので(つまり、実験者の側が、ポールを介して、体験者の体重を支えているという関係)、実際のところ、「引っ張り合う」というような能動的な駆け引きが行われているわけではない。だから体験者側のインタラクション感としては、去年の曽我部版「ぶらさがり」と本質的に変わっていなくて、あくまで、受動的な関わり方をしている。それで、なんとなく、この種の受動的に「状況に投げ出されている感」こそが、アブノーマルな身体イメージを自己に帰属できるかどうかを左右する、重要なファクターとなっているという気がしている(この点は、sense of agencyに関する一般的な言説とは逆かもしれない。僕自身は、sense of agencyの生起条件として、一般に「主体性」の関与が強調されすぎているように感じて、その点には違和感を感じている)。

身体の一部が変形していく有様を目の前にしたとき、その変形を促している主体が自己の側にあるのか、外部(他者の側)にあるのか。普段経験したことのないようなイメージの変換を受け入れるためには、イメージの変異自体は自己に帰属させつつも、エージェントは他者に帰属させる、という戦略を、認知はいろんなところでとっているのではないか統合失調性における主体のあり方なんかを絡めていくと、より面白い議論に発展できるかもしれない。

「液体の屈折特性を利用した身体像の光学誘導型グリッチ」
宮川風花

グリッチという手法(というかコンセプト)は、音楽やビジュアルイメージの領域で散々やられてきたことで、それ自体で何か新しいというのは一切ないと思うけれど、宮川さんの卒論の中では、従来のアプローチとの違いとして、「コンピュータを使わない光学誘導型のグリッチ」であること、そして、「グリッチされる対象が鑑賞者自身」という点が強調されている。

前者の「コンピュータを使わない」という点については、去年の秋に「おとなのからだを不安にさせる13のワーク」というワークショップを企画した頃に考えていたことと地続きのところにあって、HMDやらディスプレイやらスクリーンやら、というのは、舞台セットそのものがいかにも非日常的過ぎて、その中でどれほどリアルな表現が志向されていようとも、電源を切ると(HMDを外すと)同時に夢から覚めてしまうようなところがある。だから、日常的な文脈の価値は、メディア空間への依存度が高まれば高まるほどにむしろ高騰していく。一方で、そういった反面教師的なかたちで日常に目を向けていく過程で、コンピュータ的なリアリティーが日常の側に逆輸入されていく、ということが往々にしてある。メディアの教養を内面化してしまった者にとって、「日常が日常として自立している風景」へのアクセス権は完全に失われている。わざわざ日常に属するコンポーネントを使って身体像をグリッチしようとする、「ポスト・グリッチ」的な発想こそが、そうした抜き差しならないメディアと日常空間の関係の一つの顕れである。

いわゆる、「グリッチアート」的なるものと違って、今回の展示では、グリッチが体験者の主観的な身体像そのものに直接的に介入している、という点は強調しても強調しすぎることがない。マネキンの顔にグリッチをかけると、マネキンの顔はバラバラに分離する。しかし、その分離の様相は、極めて安定している。一方で、自分の顔にグリッチをかけたものを鏡を通して見ると、自分の顔のバラバラ加減、そのものが、また時間的にバラバラに移行してしまうので(おそらくは認知過程において、焦点がどこにも安定的に収束できないのだと思う)、いつまで経っても空間的に安定したバラバラの像を結ばない。何よりも、この主観的な像を形成するアルゴリズムは、各人に固有の認知過程の中に埋め込まれているので、決して、カメラによって捕捉することができない。この2種類(マネキン/自分の顔)の鑑賞体験を比較することは、ちょうど他人が自分を観察するようなかたちで、自分が自分自身を観察しようとする際につきまとう原理的な困難を考えるうえで、とてもいい教材となっているように思う。

「動くラマチャンドランミラーボックス(シリーズ)」
石原由貴

これは、石原さんが現在取り組んでいる博士研究の、ちょっとした息抜きみたいな位置付けで、ウゴラマから派生した体験装置で3点を出展した。(石原さん着想の)足をぶらんぶらんさせるというのは、シンプルだけど、面白いアイデアだったと思う。まさに「たったこんだけのことで!!」(@温度さん)、という感じ。

「FIBER FINGERS」
深井剛

まずは、この作品の背景から。

昨年の夏に、新宿のICC(Inter Comunication Center)の展示『メディア・コンシャス』(WEB)の中で、エキソニモの「BODY PAINT」(WEB)を見て、超絶宇宙級の衝撃を受けて、それがきっかけでポスト・インターネットというメディアアート発のムーブメントに注目するようになった。ざっくりな印象で言うと、ディスプレイの中に仮住まい的に構成されたメディア空間(記録されたもの、編集されたものによって構成される空間)と、その外部で、より長いスパンで自立しているようにみえる物理空間との関係を、単純な対立関係としてではなく、相互に依存し合うシステム論的(生態系といってもよい)な視座の上で捉え直そうとしている、という感じだろうか。彼らは、(ディスプレイが現実に/現実がディスプレイに)「溶け合う」というような表現を使ったりする。工学者からは絶対に発想されない、非常に文学的な言葉だな、と思ったりするわけだけど、実際にエキソニモの作品を見たりすると、この「溶け合う」という表現が、(ある場合では)事態をかなり正確に名指したものであるということがわかる。おそらく、美術というのは、多かれ少なかれ、現実と虚構との(本来)抜き差しならない関係を、それぞれの仕方で扱おうとするものであるからして、ポスト・インターネットが、美術の歴史のなかで、何か特別に新しい視座を提供しているというよりは、そういった美術の伝統を、新しい道具を使って、正しく継承しているという言い方が正確なのかもしれない。そのうえで、僕がこの一連のムーブメントに関心を持つのは、ポスト・インターネットが、美術が伝統的に題材にしてきたであろう諸問題を、非常にわかりやすいかたちで鑑賞者に提示してくれているようなところがあって、結果的に、美術という難解な装置の、優れたメタファーとして機能している(その意味では、美術であると同時にメタ美術でもあるような)、と、少なくとも僕にとってはそんな魅力がある。

この「わかりやすい」という印象は、作品の受容において、体感レベルの手応えが果たす役割が大きくなっていること、とも関係している。つまり、(美術のコンテクストを知っていようが知っていまいが発動するような)物理空間とディスプレイ内空間との区別が失効するような錯覚が現に生じること、そのことそのものが作品の価値の重要な側面を構成してしまうこと。これは、ある意味では、美術が自然科学の言語で記述されるような事態を指していることになるんだけど、逆から見れば、自然科学(および工学)が、従来であれば美術にしか処理できなかった主観世界の諸相にメスを入れるようになってきたという側面もあるわけで、つまり、科学の方から美術に歩み寄っているという見方もできる。

さて、この深井くんの「FIBER FINGERS」には、美術発のポスト・インターネットのアイデアと、自然科学発の「からだの錯覚」のアイデアがふんだんに投入されているようなところがあって、小鷹研としてはかなり新しい試みだったんだけど、それらが相互に有機的に絡み合うところまで持っていけたかというと、「からだの錯覚」の部分の設計の甘さもあり、あと一ヶ月くらい時間が欲しかった、というのが正直な気持ち。こういう瞬間瞬間を捉えた写真(↓)はすごく気に入っているんだけど。

この作品では、ラティスの真ん中が長方形にくり抜かれていて、そこに黒い布が貼られている。そのうえで、プロジェクターを使って、そのくり抜かれた領域に、外部との切れ目がないように、あらためてラティスのパターンが投影されている。プロジェクションマッピングにお決まりの、「部屋を真暗にして投影面を際立たせる」というようなことはしていない。あくまで、日常的な光環境のなかに、そっとプロジェクションを忍ばせる。その結果、(これはこの作品にとって決定的に重要なことなんだけど)展示物をぱっと見て、真ん中の部分がプロジェクターで投影されたものであることに気づく人はほとんどいない。ここでは、「投影面」と「投影されたもの」との区別が、少なくてもある質感のレベルにおいて、失効してしまっているのだ。実際の現場では、布にあらかじめラティスのパターンがプリントされているようにみえるというのが一般的な感じ方だと思う。

このプロジェクトにとっては、プロジェクションマッピングを使った表現特有の「かっこいい」演出に対抗するようなメタ表現を模索することが決定的に重要だった。実世界を舞台にするといいながら、自然光はノイズとみなされ、投影面および投影面近傍のオブジェクトの質感(テクスチャ、色感、、)は極力排除される。そういった周囲の涙ぐましいお膳立てのうえで、いかにも現実と乖離したおあつらえ向きのビジュアルが投影される。そのような、空間が本来有している豊潤な資源を黙らせることによって成立する、いかにも全能的なアプローチの急所を狙って、くさびを打ち込むこと。プロジェクションマッピングという表現形態の内側に踏みとどまりながら、プロジェクションマッピング的な表現の魅惑(≒ 呪縛)から距離をとり、あわよくば、その急所を突いて、鮮やかな転覆を図ること。そのようなカウンター表現の基本原理として、「自然光をノイズとみなす」という暗黙の前提を解除するという条件設定は、シンプルでありながら極めて鋭利な切れ味を持っている。来年も、この原理から出発して、新しいメタ表現を模索したいと思う。

「RECURSIVE FUNCTION SPACE」

前年度に信田くんと作った「I am a volleyball tossed by my hands」(映像)から連なる「視点変換シリーズ」の第二弾。「外部から自分を見る」ということにすごく興味があって、ただ認知科学的な観点からすると、鏡やらモニタを通して見る自分に対するリアリティーの”軋み”は、rubber hand illusionでターゲットとなっているような深いレベル(身体所有感)の変調作用からは程遠い。自分自身(のようなもの)と対面状況となったときに、自分がここにいると同時に、そちら側にもいるというような同時性にかかわるリアリティーを、どのような尺度で計量するのか、その方法論については、実は、実験科学の分野でも未だ十分に確立されているとはいえない。そもそも、ナイーブに「外部から自分を見たときにそれが自分だと感じるようなリアリティー」と表現されるようなものが、単に、鏡に映っているものが自分であることを認識することと、どう違うのか。こういった基本的なことについても、僕の知る限り、学術的なレベルで十分に議論されているとはいえないと思う。

僕の考えでは、この種のリアリティーを、「鏡の手前にいる本当の自分」と「鏡の側にある虚像」というような二項関係として捉えるのは、問題を極めて矮小化しているような気がしてならない。というのは、鏡やらモニタを通して自分を見ているような状況において、「自分がこちら側にいる」という手応えは決して崩れることがない。鏡を見るという行為によって、「いま・ここ・わたし」の基盤は、いささかも動揺しないばかりか、むしろ、「自分が現実にここに存在する」ということに対する現状の揺るぎなさをより強化してしまうようなところがあるその基盤は、むしろ鏡に自分が映らない場合にこそ、致命的なダメージを被るだろう)。こういった二項関係においては、虚像が、現実の身体に絶対的に従属してしまっているのだ。

「自分がここにいると同時に、虚像の側にもあるというような同時性」にかかわる感覚。この深遠なるリアリティーを解く鍵は、やはり、主客の方向性が極めて錯綜する幽体離脱にこそ求められるべきである。そのような状況では、幽体する視点だけを借りて、オリジナルの自分の肉体を眺める経験(客体→主体)と、肉体は相変わらず視点の側にありつつも、モニタ上の自分を眺めるような経験(主体→客体)とが、ないまぜに共存するような事態が発生している(にちがいない)。こういう事態に際してはじめて、自分の<自分性>を深いところで支えている何かしらにメスが入り、その副作用として、あるいはその補償として「不安」が生じる。

さて、RFS(Recursive Function Space)については、語るべき周辺的事項がたくさんありすぎて、その割には、前置きが長くなりすぎてしまったので、どうしたものか。なにを語るべきか、あるいは何も語らないべきなのか。

RFSを着想する前段で考えていたことについて、別の視点からもう少し書いてみたい。

先述した、昨夏に訪れたICCで行われた展示「メディア・コンシャス」の出品作家のうちの一人、谷口暁彦氏の「思い過ごすものたち」の記録映像を眺めていたときに、展示空間そのものが、コンピュータ上で編集された3DCGの一つのシーンにみえてしまうような、妙な感覚に襲われた。現実の空間を編集空間として、あたかもソフトウェアを操作するような按配で、種々のオブジェクトを三次元空間の特定の位置に配置していくことで展示空間が組み立てられていく。それらのオブジェクト(=コンポーネント)の間で、お互いの変数を参照しつつも自己の状態を更新するような相互作用を設定することで、展示空間に時間が流れ始める。そのなかで、ある特定の条件を満たすような更新式を定義すると、展示空間のなかで、ある特異的な「効果」が発生する。以上のような描写は、展示空間の風景を、努めて「形式的」な記述へと展開しようとするときの、一つの「切り取り方」であるといえよう。

「思い過ごすものたち」の展示空間では、iPadが決定的に重要なコンポーネントとして機能しており、iPadに映されたCG表現の質感が、iPadの外部に出て、展示空間全体を侵食していくようなところがある。編集空間A(展示空間)の内部に、別の編集空間B(iPad)がコンポーネントとして配置され、そのうえで、編集空間Bが編集空間Aに(or/and AがBに)擬態するような何かしらのインタラクションを埋め込むことによって、編集空間同士の階層性が無化されていく。おそらくは、形式的に記述され得る、数学的な効果として。

例えば、力学系が、時間発展式の内部変数を少しずつ変えていくことで、周期性を示したり、その周期が増減したり、カオスを示したり、一点に収束していったり、、といったかたちでシステムの挙動が分岐していくのを形式的に整理できるのとちょうど同じような按配で、『思い過ごすものたち』の展示空間で起きていたであろう「現実が括弧付きの現実に後退するような錯覚」の生起条件を定式化できないだろうか。極めて形式的な言語体系である論理学において、自己言及性の侵入の深さを変えていくことで、システムの完全性が維持されたり損なわれたり(パラドックスを回避したり、できなかったり)という分岐のあり方が、やはり厳密に定式化できるのと同じように、人間の主観において現実と虚構の境界に対する認識が安定していたり不安定になったり、というあたりの分岐点の様相を、展示空間内の複数のコンポーネント間の再帰的なインタラクションとして、形式的に記述できないだろうか。

自己言及性の問題は、当然ながら認知の問題(ホムンクルスの無限後退)とも強く絡んでいる。したがって、美術の領域で、しかし徹底的に形式的なやり方で、「展示する空間」と「展示される空間」の階層性を無化するような表現を志向することは、結果的に、「イメージする自分」と「イメージされた自分」とが入れ子的に構成されてしまう宿命を負った、意識を持った僕たちが、普段どうやって離人症的な不安を回避できているのか、あるいは、どのような条件で明晰夢が発生するのか、といった認知システムに特有な問題を解くための手がかりを与えてくる可能性がある。と、まぁ、この話は、結構な広がりを持っているはずなのだ。

この辺の話は、部分的に、展示初日の出前講義でもやった。

以下が、その時、話題に出した作品たち。

  • the truman show
  • ジャルジャル『一人漫才』 映像 『変な奴』 映像
  • 世にも奇妙な物語 『プリズナー』 映像
  • エキソニモ『BODY PAINT』 WEB
  • 谷口暁彦『思い過ごすものたち』 映像
  • 永田康祐『The way it is』映像

とりわけ、ちょうどRFSを作っている最中の年末に、トーキョーワンダーサイトまで見に行った、永田康祐さんの展示『Therapist』は、総体として、「記録されたもの」の蘇生をめぐって、記録メディアと物理世界のオブジェクトを等価なコンポーネントとしてとらえながら、空間全体を形式的に記述しようとする強い意志が感じられて、とても印象的であったと同時に、すごく刺激を受けてきた。

いきなり話が飛ぶようだけど、出前講義の中心的な話題として、ジャルジャルのメタ漫才の話をした。ツッコミを「現実の規範を代弁するプレイヤー」として、ボケを「こうであったかもしれない現実を提示する虚構の側のプレイヤー」であるとみなすと、漫才もまた、現実と虚構の間の抜き差しならぬ関係を、多様なかたちで記述できる可能性を持っていることがわかるし、やり方によっては、硬直した現実に対してソリッドに風穴を開けることも可能なはずだ。しかし、ほとんどの漫才なりコントは、「鏡を見て、自分がここにいることを安心する」のと同じように、ただ単に虚構を茶化しつつ現状追認で終わってしまうことが多いため、知的な領域で議論される機会になかなか恵まれていないように思う。

この点で、ジャルジャルの漫才なりコントの構造が有しているメタ構造的な特異性は際立っている。例えば、このコントとか。

僕は、かなり初期からジャルジャルの動向を追い続けているのだけれど、最近になって、ようやく、彼らの特異性を言葉にできるかもしれないという手応えをつかみつつある。今回は、RFSを理解するための近道になればといいと思って、思い切って、レクチャーの中の中心的な教材としてとりあげてみたし、結構、反応もよかったと思う。実は、RFSは、ジャルジャルの最新のネタである「一人漫才」におけるボケとツッコミの関係を、「イメージする自己」と「イメージされる自己」との関係に置き換えて、仮想空間の中で再構成したもの、というような切り取り方も可能だったりすので、その辺の関連性を、図式的に説明していったつもり。この(漫才と仮想世界を関連付けて説明する)方法は、僕自身もやっててすごく楽しかったので、今後、大学の授業の中で積極的に取り入れていきたいと思っている。

こんな具合に、自分が面白いと思えるものについて、ジャンルとか関係なく、それらが基底において何を共有しているのかについて問い続けること。それによって、たまに、思ってもみないところに補助線が引かれて、見たことのない風景が立ち上がることがある。「面白い!」のあとに「なぜ面白いのか」をしつこく問い続けることが、僕にとってはすごく大事なこと。

まだ全然つづきですが、さすがに10000字を目前に控えているので(赤を入れていたら10000字超過しました)、筆を置くことにします。展示のまとめというよりは、2016年度に小鷹研が思考していたことを、清算するいい機会となりました。(小鷹)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です