からだの錯覚、日常に潜む異界の風景(テストページ)

0 はじめに

小鷹研究室が「からだは戦場だよ」の中で展示しているような作品群は、一見すると、単なる心理学的な装置にすぎないわけだけど、でもそういうものを通して、いわゆる表現や創造と言われるものが扱おうとしているところに介入しようとしている、そんな意識が僕の中にはあって、今日はその辺りのことを喋りたいと思います。いわゆる表現や創造という営みを考えるときに、違う出自、文化、記憶を持つものたち同士が対話的にどうやってわかり合うか、そうした他者への想像力をどのように育むかという取り組みが、アートや表現の中で真っ当なアプローチの一つとしてあるのだと思います。他方、小鷹研究室がやろうとしているのは、その種のアプローチとは少し違っていて、こういう話をするとき、僕はよく「ギリギリの自分」って表現を使うんですけど、<自分>を成り立たせているものに、「ナラティブなセルフ」(物語的な自分)と「ミニマルなセルフ」というのがあって(*0A)、ウチの研究室で出てくるような話は「ミニマルなセルフ」の方。これは、記憶とか、自分がどこで生まれたとか、個人の背景とかとは関係のないところの話で、そもそもの「自分」が「自分」としてあるギリギリのところ、「自分」を成立せしめているところのプリミティブなレイヤーのことを指します。そして、そういう意味での「自分」に切り込みを入れていくことで「自分」を組み替えていきたい、ということを考えています。

1 「ボディジェクト」という位相

まず、今回の展示のタイトルが「ボディジェクト思考法」になっています。ここでいう「ボディジェクト」は小鷹研の造語なので、検索してもウチの研究室くらいしか出てこないはずですが、お察しの通り、「ボディジェクト」というのは、「body」と「object」を組み合わせたもので、身体というものが、<モノ>として立ち現れてくるような局面や表象、そういうものを指しているつもりです。(今回の展示物の)鏡の作品の「ボディジェクト指向」もまさにそういった関心とつながっています。

例えば、自分の手をあらたまって、まじまじと眺めてみることにします。これをその辺に転がっているペンとか、このマイクであるとか、自分の身体ではない何か、言ってみれば単なるモノなのだとして眺めてみようとすると、多分それってすごく難しいということが実感できるんじゃないかと思います。で、今度は逆に、なんでこの手が自分の身体にしか思えないのかって考えてみると、まあ、端的に言って、自分が動かそうと思ったその通りに手は動いてくれちゃうし、(目を閉じて)自分がこの辺に手があると思う位置にその手はちゃんとある。あるいは、机に触ろうとするときであれば、運動の意思を正しくなぞるように運動の軌跡が描かれ、そうして、ビジュアル的に手と机が重なるという段になって、正しく「触った感覚」と「触られた感覚」が同時にやってくる。そのような調和的なオーケストラの中に僕たちの身体は閉じ込められている。つまり物質的な意味での身体は、そうした特別な膜のようなものに包まれてて、これはある種の魔法のようなものだと思うけど、それは事実として、その魔法って強すぎて、そこから抜け出すこと、身体のラベルを剥がすことがすごく難しいということが、この「ただ手を眺めてみる」という思考実験ですごくよくわかると思います。まあ、まずこういう認識が大事なのかなと思います。

代表的な身体の錯覚の実験に、ラバーハンド錯覚という、ゴムの手(フェイクの手)が自分の手に感じられる錯覚の研究があります。こういう錯覚は、モノが自分の身体として立ち上がってくる体験と言えると思います。こういう『モノ→身体』という方向性の試みというのは実験科学の世界で、2000年くらいから頻繁に議論されるようになってきて、そういう意味では結構見慣れたものです。ただ一方で、小鷹研究室が他の実験科学的なものとかVR的なものと比べてちょっと異質なのは、これと逆の方向を考えているということです。つまり『身体→モノ』という方向性に対する関心がある。もともとある身体に埋め込まれたオーケストラ的な合理性のようなものに楔を入れて感覚を変調させること、自分の身体から「自己」のラベルを削ぎ落として、身体が身体として立ち上がる起源的な場所を志向しているようなところがある。じゃあ、なんでそういうことが必要なのかということについて考えていきたいと思います。

これよく授業でやるんですけど、目の見えない自分であったり、耳の聞こえない自分を想像してみるとどうでしょう。ちょっとやってみましょうか。

(会場、体験中)

まあ、そんな感じです。それで、僕の感覚だと、ちょっと変だけど、まあ想像することはできるなと。次のステップとして、身体のない自分を想像してみるってことをやってみるわけです。そのときに、多分、簡単にできるよって人とそうでない人がいるはずで。それでは次は、身体全部ではなくて、手足だけがない自分を想像してみる。

(会場、体験中)

で、これもまあ、意外と簡単にできそうだと。じゃあ、以上を踏まえて、最後に、「頭部のない自分」を想像してみましょう。頭部だけなくて、他は揃っているんですよ。こういう思考実験って、あるのかわかんないけど、僕は最近思いついて、結構面白いと思っているんです。それで、やってみると、<頭部だけない自分>って想像するのがものすごく難しい。ほとんど不可能に近いんじゃないかと思うんですね。逆の言い方をすると、さっきの「身体のない自分」を想像する時にやっていたことって、全ての身体を透明にしていたつもりだったかもしれないけれど、実のところ「見えない頭」みたいなものを捨象しきれていいないんじゃないのかという、そういう感覚がある。僕たちは(重さを持とうが持たまいが)頭部を起点としてしか世界を見られないというか、そういう形でこういう身体を持っている、あるいは(実物であれ透明化したものであれ)視点を内在した頭部を持っているということと、自分が自分であるということは切っても切り離せない関係にあるんじゃないか。逆にいうと、ここが壊されると、もはやどのようなかたちで「自分」というものが成立しうるのか、途端にわからなくなる。いずれにせよ、ここで改めて確認しておきたかったのは、身体に楔を入れるということは、時に、「自分が自分であること」を支えている生々しい場所に改変を迫るようなことさえある、そういう基本認識です。

相対主義は信仰主義に転化する

ここで、「これからの創造のためのプラットフォーム」的な話になるのかもしれないけど、身体を変えるって話はちょっと前まではリアリティがなかったんだけど、今、virtual youtuber的なツールで、誰でも簡単にアバターになれますよという形でムーブメントが起きている。で、この流れに対して僕は、あなたはもう自分の身体に縛られる必要はない、どんな自由な身体にでもなれるんだというような、ちょっと自己啓発的なノリを感じています。

ここで、いきなりですが、千葉雅也さんという哲学者の方の話で、「相対主義は信仰主義に転化する」という話をします。ここで言う相対主義って言うのは、絶対主義な見方、価値観みたいなものを否定する立場のことです。例えば、原発問題一つにしてもある人が特定の立場を表明したときの状況を想像してもらうとわかるように、何を言っても必ず足元をすくうような反論が返ってくる(そして、その反論にもまた別の反論が想定されうる)のだから何も言えなくなる、何も言いたくなくなる、みたいな風土がまずありますよね。

“思考不可能な実在のポジションは、思考の合理性の埒外なのだから、そこにはいかなる非合理的な命題でも代入できる、と言うのはつまり、非合理的な命題を真だと(実在的だと)信じ込むこと=信仰主義にいかなる場合に対しても、合理的に反駁できないのである。この帰結を、ここでは「相対主義」と言い換えよう。社会生活に有害なものも含め、あらゆる信念は、<意味がある無意味>の同じひとつのポジションにおいて相対化される。だからこそ任意の信念に没入する「狂い」が可能なのである(たとえば「ネトウヨ」のように)。”
(千葉雅也著、『意味がない無意味』, p18)

“立場次第でxをめぐって色々な言明を言え、そのどれもが決定打にならない。どれもが決定打にならないから、特定の立場への「狂った」ようなコミットメントを決定的に退けることもできない。つまり相対主義は、信仰主義に転化するのだった。”
(同、p31)

ここで「ネトウヨ」が例として挙げられているように、相対的にどれも正しいし、どれも正しくない、ってことによって何かを語ることを諦めちゃう人がたくさんいる一方で、もう一方では、どれも一緒だったら、何かすごく非合理的なものにみえるものでも、それを真にしたっていいよねという人たちも出てくる。つまり、「どれでもない」ことは「どれでもある」ということに転じるわけです。そういうのがここで言っている信仰主義ってことで、自分に縛られることはないんだよ、何にでもなれるんだって言って、virtual youtuber的なものが来たときに、最初は何にでも変身できることに対してポジティブでいられるかもしれないけど、でも、やっぱりそのどれもが真の自分ではありえ無いという当たり前の現実に対して徐々に無力感に苛まれていく、そのような経過を辿るであろうことは、普通の感覚では容易に想像できると思うんです。もともと絶対的な位相(ここでは、例えば自分の生来の身体)から離れて華麗にいろんな身体を着せ替え的に渡り歩いているつもりが、実のところ、市場原理だとか動物的な快楽原理に踊らされているだけで、無自覚に他人を傷つけたり、自分を傷つけているということがあるのではないか。

VR技術で『様々な身体を着せ替え的に生きる』系の謳い文句はすごく訴求力があって共感を呼びやすいんだけど、僕はその種の複数性の信仰に無条件に乗りたくない。そのような流動性に全的に<からだ>を委ねることは、単一の<からだ>に閉じ込められていること以上に悪夢的なのでは、という直感がある。
twitter (kenrikodaka), November 14, 2018

僕は、VR技術を、<からだ>未満の物質としての身体の水準に対する感受性を立ち上げることにこそ使いたい。あるいは、物質としての身体の可塑性(粘土としてのカラダ、ボディジェクト)から、<からだ>の複数性の問題を考えてみたい。
twitter (kenrikodaka), November 14, 2018

この僕の以前のツイートに関して言うと、身体を飛び越えていろんなものを、ある意味既製品みたいに取っ替え引っ替えするみたいなとこじゃなくて、この身体をこの身体ならしめている、生々しい可塑的な場所へと降りていく感じ。だから、解釈と言うよりは事実の上に立っている、今こういう粘土的な場所の上に立っているというところまで降りてくる感じなんです。そういう場所が、僕の中では「ボディジェクト」なんです。そこから身体の偶有性を考える。こういう粘土の上にいまの自分があるということを遡行的に考えるわけです。逆に言うと、この種の状況は外側からのノイズに開かれてて、何かがふって落ちてきたときに、その粘土の形が変わって、その時に全く自分が別の有様に変わってしまうかもしれない(*1A)。それに、この粘土の形なんかにそもそも意味なんか何もなくて、そうすると、自分がいまこういう身体であることの偶有性、別の身体でもあり得たという想像力を働かせることにつながるわけです。それはもっと言うと他者への想像力にも繋がってくる。ここではそういうイメージを持ってもらいたいと思います。

2 セルフタッチ・アラカルト

セルフタッチアラカルトと題し、小鷹研究室で扱っている簡単に体験できる身体の錯覚のワークが行われる。

フェンスよじ登りからの紙芝居おじさん

蟹と蟹の錯覚(無地)

ゴーストセルフタッチ(*2A

Tong Tong Swapping(トントンスワッピング)

そば粉の錯覚(セルフスクラッチイリュージョン)

(ワーク終了)

錯覚を感じる、あるいは感じないこと

身体というのは、いろんな感覚が同時多発的に、調和的に響き合うところだという話を先にしたと思います。自分の身体をさわる時に、「触った感覚」も「触られた感覚」も同時にくるわけですよね、あたり前だけど。で、そこが自分の身体なわけです。机を触っても「触った感覚」しかないし、あるいは、誰かに自分の身体を触られたとしても「触られた感覚」だけしかこない。おそらく、 「自分で自分の身体を触る」という特定の状況以外で、「触った感覚」と「触られた感覚」が同時にやってくるという機会はめったに訪れない。であれば、逆に「触った感覚」と「触られた感覚」が同時に来たときに、そこに自分の身体がある、と考えてしまうのが手っ取り早い判断でしょう。

セルフタッチ錯覚は、あらためて整理すると、他人の身体(O)を触るのと同時に、自分の身体(S)を(誰かに)触られるという状況で、本来は、他人の身体(O)を触っているにも関わらず、自分の身体(S)を触っている感じが得られるというものです(その意味で、「誰か」の触る行為を自分の行為としてジャックしていることになる)。この(O)は、他人の身体でなくても、例えば机の表面とか人形なんかでも成立します。つまりセルフタッチ錯覚というのは、モノや他人の身体であったはずの(O)が、自分の身体であるところの(S)に吸着して身体化する現象なのですが、これは、例えば初期状態として、自分のこの身体が、自分であるとも他人であるとも登録されていないような極端な未分化状態を想定したとき、僕たちが、自分の身体の場所を、まさに自分の身体の領域のものとして”発見”するための重要な能力なのかもしれない。実際、たとえば赤ちゃんなんかは生後間もない時期に頻繁にセルフタッチするということがわかっているんだけど(*2B)、そのときに、自分の身体のマップみたいなものを時間をかけて構築している可能性が考えられるわけです。いずれにせよ、セルフタッチ錯覚が生じるには、「触る」と「触られる」の時間的な同期の成立が重要な鍵を握ります。まずはこの点をしっかり押さえておいてください。

それで、去年僕の大学のメディア工学という授業で、今のワークショップのようなことを受講者全員にやってもらって(毎年似たようなことをやっているのですが)、錯覚感度を解答してもらいました。

Tong Tong Swappingの場合、「大変強く感じる」「強く感じる」人の割合は、合わせてだいたい20%くらい(7/31)。「そば粉の錯覚」になるとその割合が一気に増えます。だいたい半分くらいの人(14/31)が「強く感じる」あるいは「大変強く感じる」と答える。ここで面白いのが、「そば粉の錯覚」の場合、感じない人もまた、感じる人たちと同じ程度にいること。この分布が二極化してしまう件についてはまたあとで考えてみたいんですけれども、「そば粉の錯覚」が面白いのは、この錯覚を引き起こしているものは、必ずしも、指をスクラッチしている際の二人の運動時系列の正確な同期性ではないということなんですよね、たぶん。つまり、一定以上の解像度では絶対に把握しきれないような触覚の情報のノイズが(触る方の4本の指の腹と、触られる方の4本の指の甲側とに)いっぺんにやってきて、なんとなくゴワゴワっとした抽象的な感覚にまるっと飲み込まれていく。抽象的なものと抽象的なものって合いやすいわけです。ノイズとノイズが重なり合って、より大きなノイズの塊に成長するみたいな感じ。一般的な身体の錯覚って、いかに複数の感覚刺激を知覚的に同期させるか、その種のガラス細工のような繊細な仕込みが重要なんだけど、「そば粉の錯覚」の場合、同期そのものが無意味化するような、その土壌自体をゴワゴワにしちゃうことによって生まれているような、少々”荒い”錯覚なんですね。そこが、個人的にはすごく面白いと思っている。

12月の『からだは戦場だよ』のデモで、安楽大輝くんが出展した「脚を長く伸ばす体操」(*2C)で、40人近くの体験者にアンケートをとった時には、自分の腕・足が実際より長く感じたという項目で、「強く感じた」「大変強く感じた」が合わせて75%ぐらい。こういうのはほとんどの人が感じるタイプの錯覚で、学会発表とかにも乗りやすい。これと見比べたときに、「そば粉の錯覚」の感度分布を見ると、すごく面白いじゃないですか。なんで全く同一の手続きを、同じ人間に対してやっているだけなのに、「大変強く感じた」と「全く感じない」へと極端に引き裂かれてしまうのか。一方のグループは全く新しい秩序をそこに見出している。そして、もう一方のグループは荒野を眼前にして、ただ呆然と立ち尽くしている。

これは一体なんなんだと。

それで、ではどういう人が、今のセルフタッチ錯覚とかラバーハンド錯覚に対して、感じやすいのか、あるいは感じにくいのかみたいな話を考えてもらいます。ここで少し話がずれるんですけど、なんで僕がこういう研究をやっているのかというと、こういう研究って、錯覚を感じない人はわざわざやらないですよね。そもそもわかんないというか。でも、僕は幸い、ものすごく錯覚を感じてしまう方の人間みたいで、モノが身体に転じる時の「ストン」という気持ち良さを一度知ってしまった後は、もうずっと、病みつきになってしまっているようなところがある。それが一つ目の関心。他方で、これほど強烈な錯覚を、目の前の人はまるで感じていない、というような場面に多々遭遇することになると、自分にとってのあたりまえが、隣人にとってのあたりまえではないこと、そのような身も蓋もない(しかし強烈な)現実を自覚できるようになる。そこを探求したい、というのがもう一つの大きな関心なんです。おそらく、ある錯覚について、感じる人と感じない人はそれぞれに異なる<粘土>を持っていて、その土壌に固有の凹凸が足場となって、それぞれが特異的な世界のパースペクティブを持っている、、僕はそのような見立てを持っている。だから錯覚の感度の個人差を考えることは、「自分とは何者か」という、極めて個人的な問題意識とつながっているわけで、そのような意識は、当然、他者に対する想像力を考えるための足がかりにもなる。その答えを探求する際には、しっかりとアカデミックなプロセスを踏んだものにしたいと心がけているんすけど。

こうした関心のうえで、いろんな角度から、どういう人が錯覚に対してセンシティブなのかってことを考えてみたいんですが、その足がかりとして、『Rubber Hands Feel Touch, but Not in Blind Individuals』(*2D)という論文が6,7年前に出てて、すごく面白いのでここで紹介します。この論文では、被験者を視覚の健常なグループと、生まれつき目の見えない人たちのグループに分けて、今、みなさんにやってもらったのと同じようなセルフタッチ錯覚の実験に参加してもらっています。すると、視覚の健常な人では概ね感じられていた錯覚が、生まれつき目の見えない人(全盲者)のグループでは、総じて全く感じられないということがわかりました。論文の中の以下の文章は、このときに、目の見えない人たちから得られた典型的なリアクションを示すものです。

“When asked to comment on the illusion statement, several of the blind participants remarked that it was “totally absurd” or that they”could not even imagine the illusion.”

全盲者の場合、(僕たちのように)感じる人と感じない人とで二極化するとかのレベルじゃなく、完全に「感じない」に振り切れている、セルフタッチ錯覚に対して完全不感なわけです。例えば、僕たちが他人の手を触っているのを直視している状況を考えてみる。このとき、いや実は「他人の手じゃなくて自分の手を触っているのだ」という風に錯覚してみろと言われても、それはさすがに(たとえ錯覚を感じやすい人であっても)あり得ないわけじゃないですか。ばかにしてるのかと。多分、目の見えない人が、セルフタッチ錯覚に対して抱いている感覚(”totally absurd”)もその感じに近いのではないかと思います。錯覚が起こり得るとして、どういうものかそもそもイメージできない、というがまず面白いですよね。それで、こういうとき一番みなさんが思ったりすることは、目の見えない人は位置感覚が大変に鋭いが故に、セルフタッチの錯覚を感じれないのではないか、という推測です。ただ、この論文では、目の見えない人の絶対的な手の位置感覚が目の見える人たちのそれとほとんど変わらないことを実験的に示すことによって、この有望な仮説を(まずは)退けています。この点に関して、僕は、昔の授業で、ピアノの習熟度とセルフタッチ錯覚の感度の関係を調べたことがあります。

僕のそのときの想像では、ピアノの演奏者の場合、(例えば)鍵盤上で一オクターブ離れた距離だとかが、両手の距離感覚としてピタッと決まるわけじゃないですか。実験的に証明されているのかわからないけど、演奏者の両手の距離感の解像度は高そうだと。だから、ピアノをやっている人はセルフタッチ錯覚を感じれないのでは、という仮説があった。それで、授業の受講者の30人くらいについて、ピアノの演奏年数とか自己評価と、錯覚感度の関係を調べてみた。で、結果は全然関係なかった。。実際、ピアノがめちゃ上手でも錯覚強度がすごく高い人が何人もいたんです。

それと、目の見えない人は、触覚が発達しているから錯覚が感じられないのではないのか、というもう一つの有望な仮説があります。今体験してもらって、皆さんの中でもセルフタッチ錯覚を全然感じることができなさそう、という人がたくさんいると思いますが、これがなぜなのかと自己分析してもらうと、触ってるところの触覚の凹凸と、触られてる時の触覚の凹凸が違うから感じられないという風に感じているケースが結構あるだろうと思います。でも、ここで重要なのは、錯覚を感じる人の多くは、(少なくとも当初は)触覚の違いをかなり強く意識した上でも錯覚状態に入れるということです。かなり感度の高い人は(僕も含めて)、机の表面を自分の身体の皮膚と見做すことさえできる。そもそも他人の手を触っていることははじめからわかっているわけだし、触感とか温度感覚がまるで違うのものに触れているということもわかっている。でもそれを、ある時点でまるごと無視してしまうような回路を作動させて、能動的にのこのこと騙されにいくような感覚がある。この、「違いを意識したうえであえて錯覚の渦中へと転がりこむ」というプロセスが、実は、錯覚者全般にとって実際に起こっていることなのです。

次にもう一つ、目の見えない人は時間的な解像度が高くて、リズムがずれていると錯覚を感じないんじゃないのかという仮説を立てることもできます。でも、これも全く一緒で、錯覚者は、時間的なずれを意識しつつも、少しくらいのずれであれば、それを無視して錯覚に入ることができます。実際、人間は、そもそも、因果的な同時性が成立するための時間の幅のようなものがあって、100〜200msくらいの時間差であれば、意外と簡単に時間をつぶすことができちゃうんです。それで、この点についても、授業の中で、ドラムの経験者と錯覚感度との違いを比べてみたところ、やっぱりそれもあまり関係なさそうだという結果が出た。リズム感がある人の方がそもそも実験としては成立しやすいし、錯覚の状態に入る人はすぐ入りやすいかもしれないけど、リズム感が無いせいで、時間的な同時性が多少壊れたとしても、しかしそれを乗り越えてなお錯覚の世界に飛び込むことはできる人はいる。この点はとても重要です。

さてこれまで、一つ一つの感覚の鋭敏さと、セルフタッチ錯覚の感度は関係がなさそうだ、ということを見てきました。では、なぜ盲人はセルフタッチ錯覚が絶対的に不感なのか?この核心部分へと、いよいよ迫っていきましょう。さっき、身体という全体性がどういう風に組み上げられているかという話をしましたが、視覚的な世界と触覚的な世界、さらに触覚では触る、触られる感覚があって、そういうものが同時多発的に起こっているところを一つの身体として組み上げていく、そのように身体のイメージが成立するのだ、ということを解説しました。(少なくとも)目の見えている人は、誰かに触られることによって触られている具体的な視覚イメージを喚起するということですね。あるいは、右手を触られると、その瞬間には右手というのは身体の右側にあるのが普通だから、右側に何か触れられているイメージ、左手を触られると何か身体の左側を触られているイメージにそれぞれ結びつきやすい。そういう、ビジュアル的なものを引き込みやすい。あるいは触ってる感覚と触られている感覚が同時に来れば、身体の一部が視覚的に重複している具体的なイメージが否応無く喚起されている。そして、実際、さっきの錯覚のワークの中で、セルフタッチ錯覚を僕が感じている時、錯覚者である僕自身は自分で自分の手を触っているというような具体的なビジュアルイメージを経由していくような感覚がある。そのようなイメージは潜在的な領域と顕在的な領域を往復しながら、新しい身体の秩序を組み上げている。一方で、この点に関して、目の見えない人はどうなんだってことを考えたいわけです。

手をクロスすること、目の見えない人

この問題を考えるにあたって、もう一つ1対1の遊びをやります。

『どっちが先に触られましたかゲーム』(*2E

ととん、ととん、のような感じで右手と左手の表面を、連続して触ります。この際、どちらかの手の甲を少しだけ先に叩くので、どちらの手が先に触られたかを答えてください。この時、触られる方の目は閉じています。これを両手がそのままの位置の時と交差させた時との場合でやってみます。両手を交差させると、右手と左手のどちらが先に触られたかがわからなくなると思います、近くの人とやってみてください。

(しばらく体験の時間)

はい、では、逆に全然間違えなかったっていう人いますか?ちょっと僕とやってみましょう。

(小鷹氏と観客とで改めてゲームをして、観客は迷いつつも全問正解する)

全問正解です。この方はすごく珍しいタイプです。この実験は以前に岐阜駅(下の写真がその結果)や名古屋市科学館でもやったことがあって、2週間くらいで、かなりの数の人にやってもらったはずだけど、3人くらいいたかな、全然間違えないタイプの人。で、僕の知る限り、なんでそういう人がいるのかというのは学術的にわかってないんです。普通は圧倒的に正答率が下がってしまう。

これを今みなさんにやってもらったのにはわけがあってですね。これ、実は生まれつき目の見えない人(全盲者)は手を交差させても順序判断に全く影響しない(*2F)。交差していない時と全く同じように瞬時に判断できる。それで、この問題に関して、どうやら目の見えない人というのは、視覚的空間と触覚的空間の統合過程が無いのではないか、という仮説があります。触覚的空間が、皮膚の中に閉じこもっている。どういうことか。さっきの話につなげると、僕たち目の見える人たちは右手を触られると右手がどこにあろうが、まず身体の右側からなにか入ってくるような視覚的な空間イメージを立ち上げようとする。これは逆の側からも言えて、右側から来た刺激は右手から来てる、左側の空間からきた刺激は左半身から来ている、そのような(ある弦楽器の特徴的な調べが別の鍵盤楽器のメロディーを引き寄せてしまうような)オーケストラが鳴り響いている。だから手をクロスすることで、そのような皮膚の座標系(触覚的空間)と物理空間の座標系(視覚的空間)との関係が乱れてしまう。オーケストラが現実から乖離して暴走してしまう。

僕の研究室は、「からだは戦場だよ」というコンセプトで展示を続けているけれど、一番手っ取り早く身体を戦場にする方法は、手をクロスすることだってずっと言っています。僕たちの認知の奥深いところでは、身体の右側と右手、身体の左側と左手を一致して読み込んでしまうような融通の効かない位相があって、だから、たかだか両手をクロスしただけで、身体の空間的秩序は、非常状態に転じてしまっている。

さて、全盲者の話に戻ります。さっきも言ったように、全盲者は、(少なくとも)皮膚上の刺激に関しては、皮膚の位相の中で閉じているようなところがある。どういうことかというと、例えば、右手にも左手にも別のラベルが振られた圧力センサーがあると思ってください。右手を触られたら「1」の刺激がくる。左手を触られたら「2」の刺激がくるとして。この「1」「2」というのは、それぞれただ右手であること、左手であることのラベルです。で、その結果(1、2、、)をコンソールでモニタしているだけであれば、なんら混乱の余地はないわけです。そのラベルが「どこ」から来ているのか、空間的なものと縫合する必要もなければ、ただそこに示されたラベルの差異を瞬時に区別すればいいだけです。そのように、ただそれぞれの手にセンサーが搭載されていて、純粋にそのセンサーのIDを見てる感じ。逆に言うと、皮膚の刺激と、(それに対応する)視覚的空間とが無意識的なレベルで分離できないのが、視覚者の持つ(ある意味で)特権的な冗長性であり、この冗長性によって、視覚者の多くは、「触った感覚」と「触られた感覚」の同時的襲来に対して、それらが一点で重なるような視覚的空間をでっちあげざるを得なくなるのです。逆に言えば、全盲者は、皮膚上の刺激を、空間と分離して、それ自体として単音で検出することのできる”特権”を有している。これこそが、目の見えない人がなぜセルフタッチ錯覚に対して”完全不感”なのか、に対する解答です。そして、そのような彼らに特権的なパースペクティブが、一体どのような風景なのか、視覚者にとってはほとんど想像を絶するものであるように思うわけです(*2G)。

錯覚の感度に関して、もう一つ話があります。最近実験科学・脳科学の世界ではホットな話題として「内受容感覚」というカテゴリーがあって、それが何かというと、「外受容感覚」というのは触られた感覚であるとかビジョンであるとか身体の外から入ってくる刺激。で、内受容感覚は内側から起こる刺激なわけです。内受容感覚の能力を測る代表的な方法として、目を閉じた時に、自分の心拍を読み取れるかどうかという簡単な実験があります。ちょっとやってみますか。

(会場、しばらく自分の心拍を聴く)

はい。今わかったって人どのくらいいますか?結構多いですね。授業とかではもっと少ないです。内受容感覚、この内側をみる能力ってすごく大事で、長く瞑想をやっているとサイズが大きくなるような脳の部位、「島」(とう)というんだけど、そういう場所ともすごく関わってて、自分の内側を見つめる能力のある人というのは、自分の感情を結構ちゃんとコントロールできるというか、自分の感情が今後どういう風に流れていくのかというのを俯瞰して、先回りして、自分の身体を安定する方向に持ってくようなことができたりする、そういう風に言われてます。それで、内受容感覚の高い人というのは、実際、ラバーハンド錯覚が起きにくいということも報告されています(*2H)。関連する重要な知見として、身体の錯覚に関する感じやすさ(Susceptibility)は、映画の中の主人公であるとか、ニュースで報道される被害者であるだとか、ようは本来見ず知らずの人間に対して、しかし否応無く(自分と置き換えて)感情移入してしまう、その種の「対人共感性」の程度ともリンクすることがわかっています。この重要な知見は、2011年に(現ATRの)浅井智久さんの研究グループによって初めて報告され(*2I)、その後、僕も、自分の授業内実験の中で同様の傾向を確認しています(下図)。

このような個人差研究を踏まえると、身体の錯覚に対する感受性は、個々にとっての世界の立ち現れ方、パースペクティブの違いというものをやはり反映しているのだと言えます。こうやって大勢で一斉に錯覚を体感してみる意義というのは、やっぱり、目の前に自分とは180度違う感じ方をしている人がいるという、その現実を直視することだと思うんです。僕らと彼らは、全く異なる粘土を土台として、それぞれに固有の世界への志向性が立ち上がっている、ということを実感する。そういう他者たちと僕たちは共存している。これは錯覚者の側である僕の言い分だけど、現に僕がそこに見ているものが、隣人から否定される。何もないと。。これって、やっぱり僕にとって、すごい衝撃なんですよね(*2J)。だから、僕にとって、人と人がわかり合うなんて、土台無理な話なんだ、というある種の冷めた感覚がある。「土台無理」という現状認識から、そのうえで、そういう分かり合えない人たち同士が共にあるということの意味を考える。セルフタッチアラカルトは、その種の問題を考える上で、このうえない良質なトレーニングだと思うのです。

3 幽体離脱の重力

僕は身体にまつわるもので人間一般が抱えている拘束が二つあると思っていて、一つは最初に思考実験してもらったもので、身体をモノとして体感することができないこと、モノの上に貼られた「身体」という名のラベルをどう頑張っても剥がせない、という話ですね。これを僕は、「身体によるモノの隠蔽」と呼んでいます。

もう一つが、これから話す幽体離脱の話になるんだけど、視点というものが、この頭部の中に閉じ込められているという話です。例えば、空想上の視点を外側へと飛ばして、天井辺りから眺めたら周囲がどのように見えるか、僕たちの持ってる脳の性能をもってすれば、結構な精度で想像できるように思うわけですね。情報処理的には、例えば、3DCG系のソフトウェアでカメラのトランスフォームをいじっているときと同じ要領で、周囲から見たときにどのような視点を構成できるのか、ある程度のレベルで予測し、再構成できるはずなのに、なぜだが、僕たちの視点はココ(頭部)の中に閉じ込められている。想像はあくまでも想像の位相に留まり、本当の意味での意識の基点となる視点を、その想像に乗せるかたちで頭部から切り離すことができない。この辺のよくわからないアンタッチャブルな制約が、多分、僕が最初に言ってた「ギリギリの自分」の位相と関係していて、おそらく、何らかの方法でその過保護的に守られた敏感な場所を触ってあげること、揺さぶってあげることによって、「ギリギリの自分」が騒ぎ出すのではないか、、そのような予感があるわけです。個人的に。それは、自分が、自分の身体的境界から外に出て行って、他者とどう繋がるかみたいな、「共感性」みたいな話ともおそらく繋がる。

「からだは戦場だよ」を立ち上げて、今年で5年で、まあ毎年いろんなものを作ってきて、ようやく公的な場で評価されるものもポツポツと出てきているんだけど、最初のうちはもう全然そんなことなくて。で、そんな研究室の歴史の最初期(2015年頃)に、CGの得意だった信田勇貴くん(彼は卒業してゲーム会社に行きました)と一緒に作ったのが、この「I am a volleyball tossed by my hands」。

このインタラクションでは、HMD空間の中でバレーボールをトスする瞬間に、視点が一人称から三人称へと転じて、トスをして浮かび上がるボールの位置から、トスをしている自分を見るような視点へと切り替わります。このときの、ボールを見上げてトスするときに、ボールの視点になって(トスをする自分を見降ろしながら)上方へと飛ばされるとき、何とも言えない感覚があった。これはなんなんだと。

いずれにせよ、幽体離脱に絡むものでは一番最初に作ったやつがこれです。で、その後に、続編的な意味合いも込めて「Recursive Function Space」という作品を発表しました。これは去年バンコクで行われたSIGGRAPH ASIA 2017という、大きな展示会に出展したものです。

映像中に外国人の体験者の方から「WEIRD」という言葉が漏れてきますが、これは、展示会等で研究室のデモを体験している時に、外国の方がよく発する言葉なんです。「気味が悪い」くらいの意味。それまでこの単語知らなかったんだけど、おかげさまで、とてもよく聞き取れるようになりました。この「Recursive Function Space」では、右手から自分を見ることができる。さらに、左手を起点に、自分のコドモみたいなのがいて、自分を見るだけでなく、自分が自分を見ている有様、であったり、それを見ている自分をさらに俯瞰して見る、というようなことが可能です。そのようにして、どんどんどんどん分岐の中を潜っていくと、どこが絶対的な場所かわからなくなってくる。あるいは、もともといた自分の場所に戻っても、その「もともと」の唯一性・絶対性を脅かすような、「もともと」の自分をさらに対象化してしまうようなアバターが後ろに控えている。この体験の一つの面白さは、その種の仏教的なパースペクティブを体感できることにあります。

さて、ここで問題にしたいのは、これとは別の話です。「Recursive Function Space」(の一部)は、要は、右手でカメラを持っていて、そのカメラは常に自分の(アバターの)頭部にレンズを向けている。そのような右手から出発して自らの頭部へと収斂するカメラからの風景を、自分の視点として体感するというものなのですが、視点をアバターの周囲でぐるぐると回していると、アバターに対して何とも言えない、ゾワゾワってくるポイントがいくつかあることに気付きます。一つは、カメラが自分の頭部のすぐ後ろ側にある時、ようは後頭部を見つめているような状態の時です。これは、ラバーハンド錯覚の全身版(フルバディ錯覚)のときに生じる投射と関係していて、実は、実験科学の世界でも盛んに議論されているレイアウトなのですが、ここでは省略します。ここで問題にしたいのは、(フルバディ錯覚が起きないとされる)対面状態です。対面状態というのは、基本的に自己と他者との関係性をビルドするフレームで、自己の分身的な投射が起きづらいとされています。ただ、「Recursive Function Space」で右手を目一杯に上に振り上げ、その右手の先から、アバターを見降ろしてみる、ということをやってみる。そして、そこにみえているアバター(である自分)が、今度は、右手の方を見上げてみる。そうしてそんなアバター(である自分)と目が合ってしまう時、、この体験はとてつもなく僕にとってやばかった。で、そのとき、これって、よく考えてみると、「I am a volleyball tossed by my hands」で妙な感覚がしたときのレイアウトと全く同じだということに気づいたのです。

自分のアバターって、言ってみれば単なる人形ですよ。なんだけど、なんかこういうレイアウトをとるときに、なんだかよくわかんないけど、そこに自分がいる。この他人/アバターは、もちろん自分とは違うんだけど、一方で、自分の収まるべき場所、本来いるべき場所なんだと思う、みたいな。なんだか放って置けないというか、グッと捕捉されている感じがある。12月の「からだは戦場だよ2018Δ」で古谷利裕さんを呼んでトークセッションをする機会があったんだけど、古谷さんの言葉を借りると、なんかちょっと「ホラー」っぽい感じ。なんか「この人知ってるぞ」みたいな。

それで、このレイアウトって空間的にどういう構造なのかと整理してみると、重要なことは、体験しているHMDを被っている当人がやっていることは、ただ真上を見上げている。物理的な水準としては、首を後ろに傾げて空を見上げるような姿勢をとっている。他方で、仮想的な視点としては、地面の側を見降ろしてる。つまり、簡単に言葉にすると、『上を見降ろしてる』、そんなあべこべの状況となっている。上空に向かって、鳥瞰図的な視点が開かれている。僕は、この空間的構造の特異性に気づいた時、人間の認知一般にとってすごく重要な何かを掴んでいる様な手応えがありました。で、その鍵を握っているのは重力だろうということも、そのとき直感しました。というのは、この種の体験をしている時に、明らかに重力に関する感覚が変質していることに気づいたからです。それで、重力の問題を真正面から扱おうとしたのが、去年のSiggarph Asia 2018に出展した『SELF UMBRELLING』となるわけです。

それで、じゃあ何でこの『上を見降ろす』類のレイアウトがゾワゾワするのか、ヤバいのかという話を、ここからは少し実験科学的なノリで、僕が学会で発表している風な感じで話をしていこうと思います。

まずこれをやりましょう。『上を見降ろす』って話のうち、まずは『見降ろす』にフォーカスして、鳥瞰図的な視点に関する話をします。そのための助走として、今から簡単な心理実験みたいなことをします。右手か左手いずれかの写真が一枚表示されるので、写真の表示後に、僕が手を叩いて合図するので、その写真が右手だと思った人は右手を、左手だと思った人は左手をあげてください。考える時間はほとんどありません。

[図]

(右手or左手を答える実験のデモが行われる)

はい、まあ、さっと答えられた人とそうでない人といたと思いますが、、難しいのと簡単な写真がありましたね。これ、どっちが難しかったかっていうと確実に図1の方が難しい。

[図]

この実験は何をしているのかと言うと、この手のイメージが右手なのか左手なのかを判断しようとする際に、実際にこれと同じような手のイメージを、僕たちは心の中で作っているわけです。それで、面白いのは、見たままのイメージを心の中で作るだけなら、早いも遅いもなさそうな感じがしますが、、実際には、この手の姿勢を物理的に作ろうとする際にかかるであろう運動学的制約が、メンタルイメージの水準にまで波及してきてしまうということですね。関節の構造上、姿勢2に移行するよりも姿勢1へと移行する方が、時間がかかってしまう。このような課題を、実験心理の世界では「心的回転(メンタルローテーション)」と言います。重要なのは、心的回転は、物理的回転から自由ではいられないこと、いやむしろ、物理的回転をなぞるようにして達成されるということです。「想像だったらただでもできる」というのはウソなんです。

それでですね、これを全身レベルの回転で考えてみよう、という研究が最近、ポツポツと出てきている。この場合、左右いずれかの手を挙げているアバターを、いろんな角度から見て、右手を挙げているのか左手を挙げているのかをなるべく早く答えるというような課題となります(own body transformation taskと言ったりします)。この課題でも、左右を判断するのに要する反応時間(Reaction Time)が、とても重要になるわけです。つまり、反応時間が速いほど、自分の全身をアバターの向きにピタッと重なるのに要する(内的な)運動パフォーマンスが高いことを意味する。それである論文(*)で、下から見てる時(Lowered)と上から見てる時(Elevated)、目線と同じ視点(Eye-level)のときで比較をしているのですが、やっぱり上からアバターを見降ろしている時の反応時間が一番速いんです。言い換えれば、上からアバターを見降ろしている時に、アバターの身体に休館しやすい状態となっている。これって、多分、直感的に頷ける人が多いと思うんですが、しかしよくよく考えてみると、決して当たり前のことじゃないですよね。下からの視点は、まあ、手が隠れちゃっていて視認性が悪いだとか、そういうエクスキュースがあり得るわけだけど、少なくても、上からの視点と目線視点を比べれば、明らかに目線視点の方が日常生活で頻繁に遭遇しているわけじゃないですか。僕たちは空を飛べるわけではないし、よほど身長の高い人でなければ、上から人を見降ろすような視点というのは、全然見慣れてるものではないはずなんですね。それにも関わらず、僕たちは上からの視点の運用に長けている。ここの不思議をまずじっくりと噛み締めていただきたい。

別の論文でも、上からの視点と下からの視点での左右判定(この場合、アバターのグローブの左右)を比較していて(下図)、ここでも上からの視点のown body transformation taskの成績が良いという結果が得られている。

(論文*2Iより引用)

この論文が面白いのは、被験者に対して事前に聞き取りを行い、57人の被験者の中から、これまでの人生の中で幽体離脱を経験したことのある17人を特別な集団として、他の40人と切り分けて解析をしている点にあります。それで、結果はというと、驚くことなかれ、幽体離脱を経験している人たちのグループは、総じて、(経験してない人たちのグループと比べて)心的回転のパフォーマンスがむちゃくちゃ高いということがわかった。上からの視点であろうが下からの視点であろうが関係なく、あらゆる視点において、一般の群を圧倒している。視点によっては、一般の群と比べて2倍も解答速度が速いものすらあります。あらためてこの文脈での心的回転が、日常的に発揮されるどのような認知と関係しているのかを考えてみると、それはおそらく、自分から離れた位置にいる誰かから世界がどのように見えているか、その人の立場に立って想像することに近いのではないかと思います(*3D)。つまり、「ある人の立場に立つ」ためには、自分の身体を仮想的に外側へと飛ばして、その人の身体にピタリと重ねてあげる必要があるのです。

さて、この驚異的な事実は、いろんなことを考えるとっかかりになる。幽体離脱って何か特別な能力にみえるんだけど、まあ、特別なんだろうけど、でも実際そこで駆動してる認知的な機能っていうのは、心的回転のような、僕たちが一般に有している、日常生活でもおそらくは大活躍しているであろう空間変換能力そのものであるか、少なくとも、そうした基本的機制を基点としたものであるということを示唆している。すごく短絡的なことを言うと、僕たちがこの能力を何らかのトレーニングですごく磨けば、幽体離脱を自覚的に引き起こせるようになるかもしれない(ほんとのところ、僕はそう思っていないですけど)。いずれにせよ重要なのは、幽体離脱なる特別な現象に対して、しかし、人間一般が有している普遍的な認知機制から光をあてることによって、幽体離脱者の認知を、一般の人たちの世界から連続的な地平で議論できるようになることだと思います。

これはCornelius の「夢の中」という曲のPVでgoovisionsが作った映像で、世界を下から見てる構図です。ここで言いたいのは、この種の視点が、いかに見慣れない風景かということです。終始、世界を下から見てる映像ではありますが、ときどき、上から見てる様な気持ちに転じることがありませんか。そのくらい見慣れない。例えば、これが上からの視点だったら全然普通の映像ですよね。これが僕たちにとって鳥瞰図的な視点が特別だっていうことを逆の側からつく様なもので、ぜひ見てみてください。これが、まず一つは上から自分を見るってときにピタッとはまり易い。なんかよくわかんないけど。このイメージに自分の身体を合わせる、空間変換能力みたいなものが鳥瞰図的な視点のときに得意だっていうのが今の説明です。

もう一つは、「I am a volleyball tossed by my handsd」でも「RFS」でも、アバターが見上げているときに上下反転して、それを見下ろす形になるから視線の先が地面になる。確かに幽体離脱も、いろんなケースがあるけど、典型的なケースは、寝転がっている状態で、それを上から見下ろすわけです。


(*0A)
このセルフの分類は、2000年の以下の論文を起点として広く採用されている。
Gallagher. (2000). Philosophical conceptions of the self: implications for cognitive science. Trends in Cognitive Sciences, 4(1), 14–21.

(*1A)
ここで小鷹が念頭に置いているものの一つとして、扁桃体への脳腫瘍によって、突如、大量殺人犯に転じたホイットマンの遺書の一節を挙げておく。

“このところ自分のことがよくわからない。僕は分別も知性もあるふつうの若者のはずだ。でも最近(いつからかは覚えていないが)、わけのわからない異常な考えが次々と襲ってくる。(中略)いろいろと考えたあげく、今夜、僕は妻のキャシーを殺すことに決めた。(中略)僕は彼女を心から愛しているし、彼女は僕にはもったいないくらいのすばらしい妻だった。冷静に考えて、こんなことをする具体的な理由を挙げることはできない”
(デビット・イーグルマン『意識は傍観者である』 p204-205)

(*2A)
「ゴーストセルフタッチ」の元となった論文を以下に挙げておく。この論文では「cheeky illusion」と命名されている。
Aimola Davies, A. M., & White, R. C. (2011). Touching my face with my supernumerary hand: a cheeky illusion. Perception, 40(10), 1245–7.

(*2B)
赤ちゃんのセルフタッチは、生後三ヶ月程度を境にして受動的な接触から能動的な接触に転じる。また、セルフタッチの場所も、生後すぐから数ヶ月をかけて、上半身から下半身へと徐々に広がっていく。
Thomas, B. L., Karl, J. M., & Whishaw, I. Q. (2014). Independent development of the Reach and the Grasp in spontaneous self-touching by human infants in the first 6 months. Frontiers in Psychology, 5, 1526.

(*2C)
安楽大輝・森光洋・小鷹研理:「Elastic Legs Illusion – 脚を長く伸ばす体操」, 情報処理学会シンポジウム・インタラクション2019, 一橋大学一橋講堂, 2019.3

(*2D)
Petkova, V. I., Zetterberg, H., & Ehrsson, H. H. (2012). Rubber hands feel touch, but not in blind individuals. PloS One, 7(4), e35912.

(*2E)
このゲームは、日本人の研究者による、以下のエレガントなネイチャー論文の知見を下敷きにしたものである。
Yamamoto, S., & Kitazawa, S. (2001). Reversal of subjective temporal order due to arm crossing. Nature Neuroscience, 4(7), 759–65.

(*2F)
Röder, B., Rösler, F., & Spence, C. (2004). Early Vision Impairs Tactile Perception in the Blind. Current Biology.

(*2G)
全盲者にとって、物理空間の座標系が存在しない、と言っているわけではないことに注意してほしい。そもそも、全盲者にとっても(あたりまえだが)「左右」は存在する。ただ、全盲者にあっては、この「左右」を俯瞰的にモニタするシステムと、身体表面上の触覚感知システムとが、干渉しないようにできているらしい、ということである。

(*2H)
Tsakiris, M., Tajadura-Jiménez, A., & Costantini, M. (2011). Just a heartbeat away from one’s body: interoceptive sensitivity predicts malleability of body-representations. Proceedings. Biological Sciences / The Royal Society, 278(1717), 2470–6.

(*2I)
Asai, T., Mao, Z., Sugimori, E., & Tanno, Y. (2011). Rubber hand illusion, empathy, and schizotypal experiences in terms of self-other representations. Consciousness and Cognition, 20(4), 1744–50.
その他にも、ラバーハンド錯覚は、被暗示性(Suggestibility)、場依存性(Field dependency)、年齢(一般に年齢が若いほど、錯覚の感度はよくなる傾向にある)などと相関することが知られている。

(*2J)
原住民を対象とする種々のフィールドワークの記録からは、ときに、この種の現実の相違をまざまざと見せつけられる。ある朝、アマゾンの先住民ピダハンの村にフィールドワークに訪れていた言語学者は、村人たちが大挙して川の土手に集まって、明らかに異様な雰囲気で、対岸を見つめ、盛んに手を振り回したり大声を挙げていることに気づく。彼らによれば、対岸に精霊(イガガイー)がいて、彼らを殺すと脅しているのだという。その奇妙な現実を、その場にいるピダハン全員が共有している。しかし、フィールドワークに訪れている言語学者とその家族には何も見えない。

“100メートルと離れていない真っ白な砂の川辺に何者もいないことはこのわたしにだってわかる。ところがあそこに何もいないのはわたしにとって間違いないのと同じくらい確かに、ピダハンたちは何かがいることを確信していた。(中略)クリステンとわたしは、ピダハンたちを残して家に戻った。いま自分が目撃したものは何だったのだろう。あの夏の朝から20年以上もの間、わたしは自分の西洋文化とピダハンの文化とでは、現実をこんなにも別々に捉えることができるということの意味の重大さをつかむために、努力してきた。わたしには、川岸には誰もいないとピダハンを説得することができなかった。一方彼らも、精霊はもちろん何かがいたとわたしに信じさせることはできなかった。」”
(ダニエル・L・エヴェレット『ピダハン』、みすず書房、p4-5)

(*2C)
Braithwaite, J. J., James, K., Dewe, H., Medford, N., Takahashi, C., & Kessler, K. (2013). Fractionating the unitary notion of dissociation: disembodied but not embodied dissociative experiences are associated with exocentric perspective-taking. Frontiers in Human Neuroscience, 7, 719.