論文を発表しました。| Innocent Body-Shadow Mimics Physical Body

金澤さんとやっていた影プロジェクト(の初期の発見)がようやく「形」になった。

分野によって、あるいは、分野が同じでも研究者の立ち位置だとかによってで、何を「カタチ」とみなすか、というのは違ってくるはずと思う。小鷹研究室は、特定の分野の規範にガチガチに帰属しないように、、サイエンスの側にいるのかアートの側にいるのか、あるいは、工学にいるのか自然科学にいるのか、がよくわからないような曖昧なポジションを、結構、自覚的に取るようにしている。その分、小鷹研のイメージに、ネガティブな意味での”あやしさ”がついてまわることについては、半分、しょうがないと思っているし、同じあやしいなら、もう少し真っ当な「あやしさ」を目指したい、という気持ちもある。

少なくても、僕自身は、その「カタチ」を自然科学に置きたいと思っている。しかも、インパクトファクターのある国際ジャーナルの査読を通すこと(僕はこっちの分野に引っ越してきて日が浅いので、それなりに大変なことです)。これは結構はっきりしている。その土台のうえで、これからも、どんどんどんどんアヤシイことをやっていきたい。

河合隼雄の『影の現象学』という本の最初のところで、色々な事例が書いてあるように、影というのは、(とりわけ未開社会のなかで)身体の「分身」としてのイメージを体現してきたようなところがある。そういう名残は、今でも、例えば「影踏み」のような遊びの中に残っているともいえるし、あるいは、現代ではメディアアートの展示空間の中の重要なモチーフとして、かたちを変えて生き続けている、そんな風にいえるかもしれない。たしかに、影は、フロイト的な図式のなかで何かしらの象徴を担っているのだろう。ただ、金澤さんと影をテーマに何かをやると決めた時、僕は、(言葉は悪いけれど)そんな生ぬるい記述で影を理解したようにする気になるのは嫌だった。もっと、具体的に<からだ>に作用する「確かな変異」を探りたかった。

この論文の”発見”は、さかのぼること2年半前、「からだは戦場だよ2015」(ビッカフェ)の展示のための準備のなか、金澤さんの組み立てたアクリルの装置で、影スクリーンの下で浮遊させていた手を、ゆっくり持ち上げていっても、思っていたタイミングで上部の影スクリーンにぶつからないことで、すぐに直感した。手に覆いかぶさるような位置で影を見ると、「影のすぐ下ら辺に自分の手がある」という感覚に強く囚われた。その程で、手を持ち上げていくと、「まだぶつからない、まだぶつからない」と、妙に肩透かしを食らうような、変な感じになってしまう。これは、その展示の際に、ビッカフェで撮影したもの。

いろいろ、サーベイしている中で、この手と影の空間的配置が、「からだの錯覚」研究においてmoving rubber hand illusionと呼ばれるカテゴリーに対応していることがわかった。そのうえで、(これまでのMRHIの研究でラバーハンドとしての役割をなしてきた)ロボットハンドや人形、CGの手とは異なる、影の特殊性というのも、どうやら主張できそうだな、というのもわかってきた。端的に言って、影は、影自体として、強い引力を持っている。一緒に触るとか、一緒に動かすとか、そういうややこしいことする以前に、それ自体としてもっているイメージの力が確かにある。影と鏡、いろんな意味で偉大です。この辺の話は、プレスリリースに(部分的にですが)書いておいたので、よろしければ見ておいてください。映像も〜!!

(論文、ほんとは、もっといっぱい出したい。頑張ります。)

発表論文

Kodaka, K., & Kanazawa, A. (2017). Innocent Body-Shadow Mimics Physical Body. I-Perception, 8(3), 204166951770652. http://doi.org/10.1177/2041669517706520 OPEN-ACCESS

プレスリリース

手の位置感覚が「手の影」に引き寄せられることを発見 / 名古屋市立大学 日本の研究.com

実験の内容がわかる映像

影に引き寄せられる手(BODY-SHADOW ATTRACTION ILLUSION) YouTube

雑誌・早稲田文学の古谷利裕氏による論考のなかで「Recursive Function Space」を取り上げてもらってます。

2017.5.10発売の雑誌・早稲田文学に掲載されている古谷利裕氏(画家・評論家)による論考 『「わたし・小説・フィクション /『ビリジアン』といくつかの「わたし」たち」』のなかで、 先日の「からだは戦場だよ2017」で発表した「Recursive Function Space」 (小鷹研理・森光洋)を取り上げていただいています。

この論考では、柴崎友香の小説『ビリジアン』の主人公である山田解の、小説全体における時系列的な配置のあり方が主題的に論じられるのですが、山田解であるところの<わたし>の様相を詳細に読み解くうえでの「入り口」として、文学とは異なる形式を持つ領域で発表された3つの作品・装置の体験における<わたし>の変異が考察されています。このうちの2つが、ICCで昨年、一年間に渡って行われた展示『メディア・コンシャス』のなかで出品されていた、津田道子さんの「あなたは、翌日私に会いにそこに戻ってくるでしょう。」、谷口暁彦さん「私のようなもの/見ることについて」。そして、最後の一つが、小鷹研究室の「Recursive Function Space」(以下、RFS)ということになります。


 

率直に言って、例年岐阜で開催している研究室展示で、こぢんまりと公開しただけの(しかも学会発表すらしていない)RFSが、他の、実績のある作家の素晴らしい作品(僕自身、どちらの作品も現場で体験して、ひどく感銘を受けていました)と並べて取り上げてられていることには、大きな戸惑いを覚えると同時に、いろんな偶然(と少しばかりの必然)が重なって古谷さんのアンテナに引っかかって、そしてこうして論考の一部を成しているという現実に際して、(やはり率直に言って)とても幸運だったと思っています。

古谷さん自身は、RFSを体験されておらず(機会があれば、ぜひ僕からお誘いできればと思ってます)、執筆にあたっては、僕が3月下旬に公開した(「からだは戦場だよ2017」の記録を基に作成した)RFSのチュートリアル・ムービー、および解説ページを参考にしていただいたようです。論考には、解説ページの引用(注2)がありますが、関心のある方は、こちらから直接ご覧ください。

内容 LINK
RFSのステートメント WEB
TUTORIAL MOVIE YOUTUBE

ここでは、論考の中身については詳しく触れませんが、論考の一つの論点である、「<わたし>が<ここ>にいること(に関わる感覚)」が、「<わたし>がこの<わたし>であること(に関わる感覚)」と分かち難く結びついてしまっている、このいわば「自意識にとっての公理的な基底」に対してフィクションがどう介入するか、という問題意識は、「sense of self」という概念が徐々に市民権を得つつある(つまり、「sense of self」を操作可能な一つの変数とみなそうとする)実験科学の分野においても、とてもアクチュアルなものであるといえます。(一方で)めぼしい”物証”が期待できないであろう、こうした難しい課題を捌いていくうえで、そもそもこれまで、人類が芸術を(<わたし>がフィクションを)どのように受容してきたか(受容しているか)を参照項とすることは、重要な足がかりとなるはずです。小説世界における<わたし>が、(ちょうど『ビリジアン』で生じていたように)物理世界の時空とは異なる原理で、柔軟に変形し、不連続的に転換し、入れ替わり、、そのなかに読者である<わたし>が参加し、ときに<わたし>と<わたし>が共鳴する(そして、読者である<わたし>の組成が変調し、再編成されていく)。ここで生じているであろう、<わたし>と<わたし>が関係し合うパターンを、言語的あるいは数学的に掬い出し、その記述の一般性の強度を、異なるメディアにおいて成立している同型的なパターンを掬い出していくことによって、保証していこうとする試み。

古谷さんは、2017年4月27日の偽日記で、今回の論考について以下のように書いています。

偽日記(4月27日)

つまり、フィクションについて、「わたし」について、書きました。メディウム・スペシフィック的ではないフォーマリズムの実践の一つであるつもりです。

僕自身は、普段、認知心理学とか脳科学に分類されるだろう「からだの錯覚」を専門的に研究していますが、ここのところ、意識的に、その外側に出て行って、「どのような虚構(の呈示のあり方)が、現実の基盤を揺るがすのか」という問題意識で、漫才、美術、文学、演劇、、といった種々のメディアで、そのメディアのコードを自己言及的に侵食していくような作用を持つ作品に注目しています。(願わくば)そうしたアプローチに特有のパターンを統一的な共通言語で記述できればいいと思っている(僕自身は、このような視点を「メディア解剖学」と呼びたい)。その努力は、今後、「からだの錯覚」の研究へと戻っていって、そのような回り道から、大きなブレイクスルーが果たせるんじゃないか、と僅かながらの期待を抱きながら。その意味で、今回の古谷さんの水平的・横断的な実践には、とても共感できるところがあります。

最後に。古谷さんの論考だけでなく、今回の早稲田文学の特集「作られゆく現実の先で ポスト真実/人工知能時代のフィクションをめぐって」、むちゃくちゃ面白いです。僕自身は、最近の(いや、最近とか関係ないか)政治的状況には非常に疎いわけですが、「ポスト真実」という概念がリアリティーを持ってしまっている今日にあっては、「現実でないもの」を単に「虚構」と一括りにするのでなく、どのようなイマジネーションが「現実」と幸福な関係を結ぶことができるのか、という問題意識が浮上するのはとてもよく理解できる(久保昭博「ポスト・トルゥースあるいは現代フィクションの条件」)。フィクションとしか思えない宗教的なリアリティーの中に住まう民族が、しかし、全体主義的な方向へと瓦解していくことなく、豊かな人間関係を築きあげているように思えること、こうした人類学的な観察を丁寧に検討していくことによって、いまいちど、イマジナリーな営みの価値を掬い出していく、という切り口はとても興味深いなぁ、と(奥野克己「ポスト真実の時代、現実とフィクションの人類学」)。ここのところ、文芸誌なんて全く読んでなかったわけですが、それぞれの論考が、それぞれに現在の社会状況の深いところとアクチュアルに共鳴しているのがわかり、とても素晴らしい特集だと思った。勉強になってます。(こだか)