人工知能学会全国大会(JSAI2018)の招待講演で発表します。

告知です。

まだ少し先になりますが、6月7日(木)、鹿児島県で開催される人工知能学会全国大会(JSAI2018)のオーガナイズド・セッション(「プロジェクション科学」の展開と発展)で、小鷹が招待講演で発表します。

講演の予稿が、以下のリンク先でPDFで公開されてます。

小鷹研理:「HMDによる構成的空間を舞台とした「三人称的自己」の顕在化」, 2018年度人工知能学会全国大会, 鹿児島(城山観光ホテル), 2018.6(Organized Session:「プロジェクション科学」の展開と発展)
[講演情報]
[PDFダウンロード]

予稿という位置付けではありますが、そこそこ濃いめの仕上がりになっているのではないかと。幽体離脱において生じている投射の特殊性を実験科学的な立場から整理するとともに、HMDが幽体離脱の特性を探る上で魅力的な道具となり得ることを、実例に即して解説しています。ぜひダウンロードしてご覧ください。


せっかく40分という長い講演時間をもらってるので、『からだは戦場だよ』とか『おとなのからだを不安にさせるからだ』あたりの、小鷹研独自の活動についても少し紹介できたらな、と思っています。ただ、話の中心は、幽体離脱と重力知覚の関係のところに置くつもりです。もっと言うと、幽体離脱を人工的に構成するうえで、重力知覚(の変調)という切り口がいかに魅力的であるかを、色々な角度から伝わればいいなと思ってます。とりわけ、前庭系が一人称視点の方向性を決定する上で重要な役割を果たしていることを種々の観点より解説しているBlankeのチームによるReview Article

Pfeiffer, C., Serino, A., & Blanke, O. (2014). The vestibular system: a spatial reference for bodily self-consciousness. Frontiers in Integrative Neuroscience, 8.
[原文]
[レコード・オブ・ジャーナル・レコーディング(小鷹研究室)]

は、今回の講演のテーマの基底を成す論文です。もちろん、今年の戦場で発表したSELF-UMBRELLING(下図)とも深く関係する、最近すすめているHMDを使った二つの重力反転実験で得られている小鷹研独自の知見も紹介していきます。


自分のような無法者に声をかけていただいた、青山学院大学の鈴木宏昭先生と北海道大学の小野哲雄先生の期待に応えれるよう、普段のテンションでいきます。よろしくお願いします。

なお、この講演が済んだら、そのまま南(東?)にスライドして、家族で屋久島に行って来ます。招待講演も屋久島もすごく楽しみ。
(小鷹)

卒業おめでとう〜|2017年度卒業生(加賀芳輝・佐藤優太郎・永吉貴裕・室田ゆう)

久しぶりの更新です。
と思ったら、もう四人は卒業なのです。

謝恩会で、大きなお花をもらいました。家に帰ってから、あらためて個々の花に目をやってみると、結構な密度でいろいろなものが詰まってた。やっぱり、花は嬉しいよ。

ながよしくん、さとうくん、むろたさん、かがくん(2017年度・謝恩会)

研究室における教員と学生の関係には、ある種の権力関係が働く。例えば、僕は、彼らが卒業できるかどうかの判断を最終的に下す権限を持っている。ときどき、教員としての自分が帯びてしまうこの種の「権力性」に対して、<うざいなぁ>と思うことがある。それは、別の研究室で理不尽な状況に巻き込まれている学生を見た時に自分に照り返されてくるものだったり、あるいは、(種々の局面で)親でもない僕がわざわざでてきて、学生に対してやかましいことを言わなくちゃならないときに感じるものだったりするわけだけど、そんなこんなで、権力を意識しないといけない状況というのは、行使する側にとってもされる側にとっても、本当にうんざりなのだ。

で、

家族でもないし、疑似家族とも言いたくないし(そんなベタベタしてない)、でも決して会社とかとも違う(「何の役にたつか」なんてつまらんことばかり言わないでね)、そんな研究室という空間で、しかし、この種の非対称的な権力性と対峙するために、教員としての僕が、僕自身に課している最低限の責務は、小鷹研以外では決してお目にかかれないような、面白い風景を学生に見せてあげること。そのことにつきる。それができなかったときに僕はすごく凹むだろう。

で、

今年でてきたものが、これなわけで。

小鷹研・卒業生の全仕事(2017年度卒業生)

凹む理由をわざわざ探し当てる必要もない。

(それぞれが、それぞれに、僕の卒論の73000倍くらいの価値はあると断言します)


卒業おめでとう。
特に惜別の言葉とかはないです。

まずは、小鷹研および大学生活から解放された自由を謳歌できるだけ謳歌すればよい。これからは、それぞれの場所で、それぞれのやり方で、勝手に人生が展開していくのだから。

あえて言えば、自分が権力を行使する側になったときに「イタイ大人」とならないようにね(でも、今年の卒業生もそうなりそうな人は一人もいないけれど)。

僕は僕で、みんなの仕事の続きを引き受けてやってきます。

毎年、毎年、この繰り返し。
ふ〜。

忘れた頃に、どこかで会いましょう。

p.s.
室田さん、学科賞(研究賞)おめでとう(↓)。室田さんの将来が本当に楽しみですわー(半ばお父さん目線です)。

むろたさん、学科賞(研究賞)

p.s.
あ、そういえば、佐藤くんは、近くにいるので、蟹の錯覚の研究、もうしばらく一緒に続けていきます。まずは、9月の認知科学会を目指そう。

Siggraph Asia 2017(2017.11.27-30)への参加

siggraph asia 2017へのVR装置の出品のため、研究生の森光洋くんと、はるばるバンコクまで行ってきました。
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発表したのは、幽体離脱的な体験を与える「Recursive Function Space」と、腕が伸びるような感覚を与える「Stretchar(m)」です。Stretchar(m)は、森くんの修論(身体各部の伸縮感覚の誘発)の最後の最後のところで、一緒に作ったやつです。

⬜︎ これらは、もともと、今年1月の「からだは戦場だよ2017」への出品というかたちで、(極めてローカルなエリアで)初めて発表したものなのですが、わずか10ヶ月ほどで世界的な舞台に辿り着いたことになります。
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⬜︎ Stretchar(m)については、今回のsiggraph asiaへの出展の直前のタイミングでプレスリリースを出したこともあって、いくつかの媒体が取り上げてくれています(現時点で、取材中のところもあります)。

⬜︎ 11月26日は一日中設営、
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その後、27・28・29日と、朝から夕方までひたすら展示。

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日本の学会でのインタラクション展示は、だいたい2時間くらいで終わるのが常なので、三日間ひっきりなし展示ブースに張りついて、新しいお客さんが体験に来られる、というのはとても新鮮でした。
ただ、初日の展示が終わった後、この調子でやっていたら僕も森くんも身体が壊れるな、と思って、二日目・三日目は、少し多めに休憩を取るようにしました。それで、意外と疲れなかったかな。

⬜︎ で、展示については大好評だっと思います。本当に。体験者の数も、(他と比べても)すごく多かったんじゃないかな。
Stretchar(m)は森くんの担当。三日間ずっと引っ張り合いっこしてました。時折叫び声が。

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RFSは僕です。一度体験した人に勧められて来る感じの人が多かったです。

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ほんと、みんな、こんな(↓)感じの反応です。だもんで、展示する側も飽きないし、楽しい。


以下は、twitterで拾えた反応。


バンコク滞在中、一切観光をせず(できず)、毎晩、ホテルと会場の間にある屋台に通ってました。おいしかったー。
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トムヤムクン、海老入りすぎ、パンチききすぎ、で三日目から胃が少し疲れてきた。

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名古屋市科学館の企画展(2017.9.16-24)に参加してきました。

9月16日から24日まで、名古屋市科学館の企画展に参加しました。

下の写真は、最終日(9月24日)の業務が終わって、三人で記念撮影。

企画展の詳細は(というか、小鷹研が企画展でやったこと)、以下の特設コンテンツをご覧ください。

「注文の多いからだの錯覚の研究室 in 名古屋市科学館」
(小鷹研究室)

各種錯覚(「軟体生物ハンド」「すのてすのあしあべこべ実験」「影に引き寄せられる手」 「鏡に折り返される手」)に関して、説明とともに簡単な映像もご覧いただけます。
ちなみに「注文の多いからだの錯覚の研究室」というネーミングは、小鷹研独自の錯覚がある程度増えてきたら(というかかなりもう既にかなり増えてるんですが、)「この名前でオンラインのコンテンツを公開しよう」という気持ちで、以前から温めていたアイデアです。なので、今回で完結するものではなく、今後、いろいろな形でアップデートしていくコンテンツの雛形だと思ってください。
さて、今回は、同時期に、認知科学会(金沢)、エンターテインメント・コンピューティング(仙台)と、それなりに骨が折れるイベントが並走していたので、僕自身、がっつりと関わるのが難しかったこともあり、4年生の佐藤優太郎くんと、博士課程の石原由貴さんにプロジェクトメンバーに入ってもらい、準備作業、現場での展示にあたって、大きな責任の一端を担ってもらいました。実際、現場で使っていた膨大な舞台(?)装置、掲示物の多くは、佐藤くん、石原さんの二人が中心になって制作されたものです。
こちらは、今回の目玉の「影に引き寄せられる手」の諸装置(「のっぺりはんど(影)」、「みぎひだり、うえした、あべこべ実験」、「影の引力観察日記」)。

影に引き寄せられる手

さて、実際の企画展の様子ですが、、(僕は最後の土日の二日間しか現場で対応できなかったのですが)小鷹研のブースは、少なくても休日は、ひっきりになしに来場者が来て、錯覚の体験待ちの状態だったようです。
主催者の方の説明によると、企画展そのものには、最初の3日で6000人以上、、、。

展示風景2

本来であれば写真で現場の賑わいぶりをお伝えしたいところですが、いろいろ配慮せねばならぬことが多いということなので、、 代わりに、現場で実際に錯覚の対応をしてくれた、プロジェクトメンバーの佐藤くん、石原さん、に加えて、四年生の加賀芳輝くんに(この三人は、企画展全体の業務にも当たってもらいました)、今回の企画展に参加してみて諸々感じたこと(特にお客さんの反応とか)をレポートとして書いてもらいました。現場の雰囲気がよく伝わってくると思います。

佐藤優太郎(学部4年)によるレポート
科学館でからだの錯覚体験をお披露目する中で収穫だなあと思うのは、普段の研究室の活動からは考えられないほど多くの人数の、錯覚を体験する様子を見ることができたことでした。錯覚を感じてケラケラ笑う人、錯覚に興味津々な人、錯覚を感じず困り顔の人、錯覚のイメージを持つことを拒否する子供、いろんな人に会いました。
用意した「手、鏡、影」の錯覚体験は、私が小鷹研究室に配属になる前から蓄えられてきたもので、なかでも存在感のあった影のブースは、先生が実験のために作った影の装置を元に、石原さんと体験向けに作ったものです。手間をかけた甲斐もあり、楽しんでもらえたと思います。また、特に反応が良かったのは軟体生物ハンドで、錯覚に入ったであろう途端ニヤニヤしだすお客さんの顔が印象的でした。「ゴムの手」を手に入れるイメージは強烈だったと思います。さわるさわられる、あべこべ実験も面白かったです。私はこの実験で起きる錯覚を感じないので、感じる人の錯覚のイメージを羨ましく聞きました。触ってる場所はなんか違うけど、でも自分の指を触っている感じはある、というイメージの人が多いようでした。
からだの錯覚を感じるかどうかは、その感覚のイメージを持つことができるか、と言い換えることができそうです。錯覚を体験したお客さんの多くは「ああ、なんかそんな気がする」とか「(イメージができてきて)なんか…あー、はい、はい、わかる」と、だんだんと錯覚のイメージを掴んでいるようでした。人がイメージできることは、からだが感じることができることで、「自然には感じることない感じ方の組み合わせ」を埋めてみることがからだの錯覚体験のように思えます。
また、「自分」と「自分ではないもの」との区別が、『さわる感覚』と『さわられる感覚』が同時に起きるかどうかで判断されるならば、それはシンプルですごく面白いです。こうしたからだの錯覚からわかることを、笑い、免疫、演じること、あたりと絡めて考えると面白いかも、というのが最近のマイブームです。
今回の企画展は「注文の多いからだの錯覚の研究室と題して流れる映像」と「研究室のマーク」と「手足の模型」を玄関に多くのお客さんをお出迎えしました。玄関というか入口の作りは大事だと思っていて、それが割合うまく機能していたのが嬉しかったです。とても楽しくやれました。感謝です。ありがとうございました。

加賀芳輝(学部4年)によるレポート
科学館でのワークショップをしてまず印象に残ったのは家族連れの親の反応だった。たいていの場合、親は子供が楽しんでくれたらいいな程度で科学館に来ている。そもそも科学館の展示自体も子供向けのものが多く、小鷹研としての展示もそのような感じで子供に最初に体験させることが多かった。しかし親の思った以上に子供の反応がよかったのか、それとも横から見てとてもおもしろそうに見えるのか自分もやりたい、というように親の目が輝いていくのがわかった。中には他の人が体験している様子を見ていて子供より先にと体験をしたがる人もいるほどだった。
ワークショップ型の体験をするものが科学館には少なく、そしてどこでも見たことのないようなものが見られたのが特に良かったんじゃないかと思う。体験してもらっているとき、これは目の錯覚にあたるのか?とかそもそもこれは何なのか?とよく訊かれた。お客さん達からすると未知の存在に出会ったというような感じだったのだろう。
また、大学内でやっていた実験がこれほど広い年代や層の人に楽しんでもらえたと言うのは驚いた。おしゃれな女子大生と言った感じの人が”みぎてひだりてあべこべ実験”を知り合いにも試してみようと刷ったチラシを持って帰ったり、説明を聞いてもさっぱりわからんと言っていた人が体験して面白いと言っていたりしてからだ錯覚の面白さが大いに伝わったのではないかと思う。

石原由貴(博士課程)によるレポート
今回の科学館で、私は手を撫でる系の展示を多く担当しました。これらの錯覚は、さわる側の手と、体験する人のさわられる手とが同じタイミングでズレの無いよう上手く触れる必要があります。そのため、私は開始30秒くらい手だけを見つめて真剣に手を撫で、その後、チラリ、と相手の顔を見ます。相手に錯覚が起こっているかどうかは、その時の表情で大体分かりました。すごくニヤついているからです。「変な感覚はありますか。」と私が聞くと、「はい…変な感じあります…」と返事が返ってきます。もしくは私が声をかけるまでも無く、「うわぁ…!」という呻き、もしくは狂喜の声が聞こえます。この反応だけでも、体験する人の身に、何か普段は感じえないような体験が起こったことが分かりました。
普段は研究室という閉じられた空間内でこういった遊びをしている私たち。この身体の一部を変質させるという体験は、特段、私たちだけが持つ変態的な趣向なのではなく、多くの人が普遍的に「楽しい」もしくは「変」「気持ち悪い」といった強い感情を呼び起こすことのできる威力を持ったコンテンツなのだと、変な安心感を覚えました。
もちろん、この体験を感じることができない人も全体の2割ほどいました。その際は、錯覚が起こらなかった原因として考えられることなどを説明し、頷いて納得してもらったのですが、「うーん…体験したかったなぁ…」という残念そうな反応に、こちらまでちょっと申し訳ないような気持ちになりました。ここで驚きなのは、錯覚を体験できなかった人の中に「本当はそんな体験は存在しないのではないか」という疑いの意見を、ほぼ聞かなかったことです。これは先に体験した人の反応から「ここに何かとんでもない体験がある」という印象が、あまりにも出ていたためでしょう。特にお子さんは終始ニヤニヤしていて、あまり体験する気が無さそうに見えた親御さんを、「体験したい」という気持ちにさせるほど楽しそうでした。
もちろん撫でる系だけではなく、用意していったコンテンツの殆ど全て、驚いてもらえたり、楽しんでもらえたりと、やりがいのある展示となりました。自分の身体の一部を変調させるこの快感が、よく伝わる展示となって良かったなぁと思います。(あと、撫で方が上手いと褒められて大分嬉しかったです。これからも精進します。)


さて、話は戻って、今回の企画展への参加は、展示の期間が10日間という長丁場に及ぶことを考慮し(現場に関わってもらう学生が同じ業務の繰り返しで退屈されてもらっても困るし、、)、10日間を通して何か一つのものをつくりあげていく、という仕掛けがあるといいなぁ、と思ってました。
そうしたアイデアが結実したものが、錯覚の感じやすさを参加者全員のデータの分布として可視化する「感じる感じないマップ」「どっちの手が先に触られましたか」「影の引力観察日記」です。
それぞれのマップは、実際、館内では、こんな感じで掲示してました。


どっちの手が先に触られましたか?
感じる感じないマップ
影の引力観察日記
これらの分布は、日々サンプルが増えていって、10日間を通して全貌が明らかになっていく、、という面白さがあります。
「感じる感じないマップ」
「感じる感じないマップ」は、自己接触錯覚の変奏である「さわるさわられるあべこべ実験」(本当は机の表面を指でなぞっているのに、自分の手をなぞっているように感じる錯覚の実験)を体験してもらい、錯覚の感じやすさを五段階で評価してもらったものをマップとしたものです。
似たような実験は、これまで大学の授業の中で繰り返しやっていたので、感度が体験者間でばらけるだろうことはわかっていました。ただ、今回は、授業と違って、幅広い年齢層の人を相手にすることができるまたとないチャンスです。ということで、「感じる感じないマップ」では、加齢とともにに感度がどのように変化するかもわかるように、縦軸に「年齢」の指標を導入してみました。






と、まぁ、こんな感じで、この中には、結構、(研究的な視点で)重要な情報が入っています、。最終結果(16-24日)は、論文に反映させる予定です、(ので内緒)。。

「どっちの手が先に触られましたか?」
こちらは、「どっちの手が先に触られましたか?」の結果です。順手の時と手が交差した時で正解した回数のところにシールを貼ってもらいました。




展示の期間中、僕が把握している限り、手を交差しても正解率の落ちない方というのが、小学生くらいの年齢の子で数人、大人だと、20歳ぐらいの男性の方が一人だけ、という感じでした。
大学の授業で、毎年、この実験をやっていますが、手を交差した状態で、自信を持って毎回正解するタイプの学生と出会ったことがなかったので、こうした特性を持つ人が実在していること、そのものが、僕にとっては大きな発見でした。
僕の仮説では、これはある種の「絶対皮膚感覚」とでもいうような能力に由来すると考えますが、仮に幼少時代において、そのような能力に恵まれて(?)いたとしても、それは(おそらくは)奇跡的なバランスで成立しており、大人になっていく過程で、視覚空間と身体空間の連関性のシャワーを浴び続けることによって、そうした特殊能力もやがて損なわれていく宿命にある、ということなのかもしれません。
この辺の研究って、どのあたりまですすんでるんだろう。すごく興味ある。
影の引力観察日記
「影の引力観察日記」というネーミングは(多分)佐藤くんのアイデア。こちらは1日毎の更新です。




この分布が何を意味するかについては、こちらの映像をご覧いただけるとすぐわかります。



てなことで、昨年に引き続き、今年もワークショップ的なものの企画が突如立ち上がり、どうなることかと思ってましたが、信頼のおける学生たちの奮闘もあって、小鷹研らしい独自の錯覚体験空間をつくれたのではないでしょうか。
これで一区切りがついて、これからは戦場モードです。またお会いしましょう。

EC2017(2017.9.16-18)への参加(UNITY賞もらいました)

はるばる仙台まで、EC2017(正式には、情報処理学会エンターテインメントコンピュティングシンポジウム、、長い)に、参加してきました。

Entertainment Computing 2017(公式HP)

持って行ったネタは、以下の3件。
小鷹研理, 森光洋:
Recursive Function Space: 左手を節、右手を葉とする再帰的視点変換によるメタ認知空間の探索,
エンタテインメントコンピューティングシンポジウム2017論文集 pp378-379, 東北大学, 2017.9.16(デモ発表)
石原由貴, 森光洋, 室田ゆう, 小鷹研理:
HMDを介したポールを引っ張り合うことによる腕が伸縮する感覚の誘発,
エンタテインメントコンピューティングシンポジウム2017論文集 pp380-382, 東北大学, 2017.9.16(デモ発表, プレミアム枠) UNITY賞
PDF
室田ゆう, 森光洋, 石原由貴, 小鷹研理:
ELBOWRIST: HMDを用いた第二の肘を介した背面空間の探索,
エンタテインメントコンピューティングシンポジウム2017論文集 pp114-117, 東北大学, 2017.9.18(口頭発表 + デモ発表, プレミアム枠)
PDF

例年、小鷹研究室のメディア系のデモは3月に行われるインタラクションに出展していたのですが、昨年度の小鷹研の主要な成果物である二つのHMDの仕事(『Recursive Function Space』、『Stretchar(m)』)が完成したのが年明けであったために、年末の締切に間に合わず、これまで、どこにも投稿できず、宙に浮いたままの状態でした。
しかしながら、『からだは戦場だよ2017』の様子を編集して公開した映像等で、

展示の記録と周辺|からだは戦場だよ2017(ブログ)

幸運にも、研究室の最近の仕事が、少なくない(その多くは美術系の)方々の目に止まり、そうした流れのなかで、まだどこにも発表していない『Recursive Function Space』(以下、RFS)が、文芸誌である『早稲田文学』のなかで、古谷利裕さんの論考で取り上げられる、、、

雑誌・早稲田文学の古谷利裕氏による論考のなかで
「Recursive Function Space」を取り上げてもらってます。(ブログ)

という、僕からすると、ちょっとびっくりするような局所的な盛り上がりを見せていました。てなもんで、、早く公式の場所で発表しないとなぁ、と思ったり(あるいは、もうそれなりの反応があったから発表しなくてもいいかと思ったり)。
Stretchar(m)は、森くんの修論の最後にオマケ程度にくっつけたもので、確かに『からだは戦場だよ2017』での評判はすごくよかったし(当時は『ポールを引っ張り合う、腕が伸びる』という風に仮で呼んでました)、

僕自身もその当時は興奮していたように思うのですが、新学期となって授業授業授業授業の日々なかで、精神の疲弊がすすみ、当時の興奮をキレイさっぱり忘れてしまっていったようなところもあり、まぁ、森くんも修士とって研究員という立場だし、お蔵でいいかな、、、というようなムード濃厚となっていたところ、、、
投稿を控えた7月に(何かのきっかけで)久しぶりに体験してみたところ、有無を言わさぬ「あ、これ、やっぱ、すげーじゃんね」が沸々と湧き上がり、絶対発表しないと後悔するわ、と思い直したのでした。それで、学術的な仕事の諸々から足を洗った森くんに変わって、論文の執筆・ポスターの構成や、投稿のための諸々のコーディネートを石原さんにお願いして、室田さんは勉強がてらサポート役ということで、僕も含めて、4人体制で投稿した、というのが事の経緯。
初日は、この二つのデモの初公開だったんですが、(僕が対応していた)RFSにはポツポツと濃ゆい人が集まって哲学談義に花を咲かせている、その傍らで、(森くんが対応していた)Stretchar(m)のブースは「ぎゃー」「うわー」「ひゃぁー」という感嘆の声が響き渡っており、というか、(おそらくは)既に体験した人たちの評判をききつけて、時間が経つに連れて続々と人が集まってきる、といった典型的なプチ祭り状態で、結果的に、歴代の小鷹研のデモの中でも、間違いなく最大級の盛り上がりを見せることとなっていたのです。で、まだ何の連絡も受けてないんだけど、公式HPによればUNITY賞という賞を受賞したようです本当に受賞してました。(本当のこというと、投票賞に届かなかったのが信じられなくって、、上から何番目だったんだろうか気になってる)。
Unity賞(Stretchar(m)、EC2017)
UNITY賞の趣旨はあまりよくわかっていないですが、とりわけCGのところで中心的な仕事をしてくれた森くんを讃えるうえで、これ以上なく、ふさわしい冠の賞なのだと思います。一方で、このSteretchar(m)は、UNITYだけじゃなくて、ProcessingとMax/MSPとWii-Boardが相互にネットワークでつながっている、いかにも小鷹研らしい、マルチモーダルな同期システムなのだ、ということも強調しておきたい。
あ、それと、もう一つ重要なことを言い忘れていたんだけど、Stretchar(m)は、2年前に小鷹研を卒業した曽我部愛子さんの「Underground Diver」(学科賞とった)を発展させて作ったものなんですね。ということで、なんだか、いろんなことが結果となって結びついてきており、嬉しいです。

初日、森くんの怒涛のデモ対応の後、第一著者の石原さんは、このとき名古屋市科学館、、


それと、RFSもStretchar(m)も、どちらも、11月下旬にバンコクで行われる『Siggraph Asia』のVR ShowcaseにAcceptされてます。これ、全国的に全く無名の弱小研究室としては、すごいことだと思うんです。本当に。てことで、森くんとバンコクで闘ってきます。英語苦手だけど。

Siggraph Asia 2017(公式HP)


こちらは、RFSのデモの様子


Stretchar(m)関連のツイート



Elbowrist
で、最後に、4年生室田さん中心のプロジェクトである『Elbowrist』について。
Elbowristについては、関連するツイートを並べておきます。今年の戦場では主力となるであろう、現在の小鷹研にとっては極めて重要で刺激的で挑戦的なプロジェクトです。ちなみに、『Elbowrist』の論文はプレミアム枠で採択されているんですが(Stretchar(m)もだよ)、4年生が書いた論文が、このようなかたちで高く評価されてる、ってのは本当にすごいことと思ってます。
で、肝心の発表ですが、もともとの予定では、三日目の午前中に口頭発表やってから、昼からデモ発表、終わり次第すぐに帰る、という慌ただしい1日となるはずだったのです。しかし、なんと、前日からの台風の影響で、口頭発表が吹っ飛んでしまい、結局、デモ発表を2時間くらいやっただけという(しかもデモ発表が遅れて開始された関係で、最後まで完遂できず、プレミアム枠の審査を受けることができなかった)、なんとも肩透かしな1日になってしまったのです。
当日の早朝、ホテルのロビーで、小声でやってもらった発表練習、最後の最後にきてかなり仕上がっていて、こんな質問がきたらこう返そうみたいな余裕まであったので、、だもんで、、このようなかたちで、彼女に晴れ舞台を用意できなかったことが、本当に残念でならない。。
それはそうとデモ発表は、RFS同様、大変に濃ゆい人たちが集まり、設計段階では全く無視していた諸々の気づきを得ることができたし、Elbowristが、学術的に見ても、非常に重要なポイントをついているということもわかりました。こちらに戻ってから、elbowristのことばかり考えてる。早く、室田さんと相談して、心理実験の計画を立てたい。

口頭発表で流す予定だった映像


デモ発表当日の様子


体験者の反応を踏まえて、考えたこと。



9月の小鷹研、いろいろやってます(認知科学会、EC、名古屋市科学館)。

9月の小鷹研、その1
  • 9月14日、JCSS2017(認知科学会)のOrganized Sessionで、小鷹が「HMDと身体」に関わる研究発表をしました。この論文PDFは事前よりHPで公開されており、少なくない方々に読んでもらっているようです。

論文のPDF

  • この論文では、まずは「何らかのイメージに自分を投射する」うえで、OwnershipとAgencyが果たしうる役割を考えています。両者とも感覚間共起性をベースに「自分」を外部へと投射するわけですが、Ownershipは、イメージに課されれる整合条件が強すぎるし、投射距離も短い。

  • Agencyはといえば、イメージはなんでもいいし、投射距離もどこまでもいける。空間的自由度は一気に上がるが、実は、Agencyは「0から身体を立ち上げることができない」。さらに、イメージに対してアクティブに関わらないといけない。関わり続けないといけない。。

  • 例えば、VR上でアバターに身体を投射したい場合、Ownershipでは近視眼的すぎるし(整合条件的に)対面できないし、一方で、Agencyでは、TVゲームのマリオで達成されていることと何ら変わらないわけです。せっかくHMDという新しい環境があるのだし、違う道を探りたい。

  • そこで、第三の道として「三人称定位」という位相を考えたい。この「三人称定位」では、対象に対してアクティブに関わる必要はないし、空間的自由度も外側から俯瞰できる程度には上がる。Ownershipほど強い「身体」ではないにせよ、そこに「自分が所属していること」が明確に「感覚」される。

  • このような位相を考えるうえで、幽体離脱(OBE)というある種の「認知モード」を手がかりにしたい。幽体離脱状態では、そもそも半数以上が自分の動きをコントロールできないから、PassiveなSelfを構成できるし、多様な視点から自分を俯瞰することもできる。距離の自由度も上がる

  • 確かに、幽体離脱は、OwnershipとAgencyでは要求されている、いくつかの空間条件、同期条件が課されないことは魅力的であるわけだが、、、他方、そもそも、何か「起動スイッチ」となっているのかがわからない。起動するための「新しい条件」というのを探らないといけない。。

  • 長くなったのでやめますが、こんな感じで、「HMD空間に身体を入れる」うえで、OwnershipともAgencyとも別の道を探るアプローチもあり得るのではないか、という提案がベースとなっており、その意味で、結構「大きい話」をしています。

  • 発表は、意外と反応がよかったです。オーガナイズした先生方からも大変ありがたい言葉をいただいたし、知能ロボティクスの浅田稔先生がたまたま聞きに来ていて(質問もしてくれた)、ロボットとownershipの研究の可能性について発表後にディスカッションできたのは、すごくラッキーだった。

  • 論文に関しては、画家で評論家の古谷利裕による偽日記の中でも取り上げていただいています。このポストのおかげで、僕の論文を、多くの人が読んでくれたみたいでうれしいです。ある種の「要約」として読まれるのもいいかもしれません。論文長いし。

偽日記へのリンク

9月の小鷹研、その2

https://twitter.com/kenrikodaka/status/908445660382355458

9月の小鷹研、その3

academistに研究コラムを寄稿しました(2017.6.23)。

  • 6月にacademistに論考を寄稿しました。
  • 影の論文が出てプレスリリースを出したところで、編集部からお話をいただきました。
    ありがたいことです。
  • もうだいぶ前の話になりますが。。

  • 字数の制約上、いろいろ端折ったところがあります。特に、ドリフト(位置感覚の移動)と身体所有感(身体を所有している感覚)の関係というのは実のところ、よくわかってないところがあるんです。ドリフトも身体所有感も、感覚間同期に起源を持ちながらも、どうやら異なる経路で変調されているらしい。だから、実験系によって相関したりしなかったりする。直接的な因果関係はないと考えたほうがよいみたい。

論文を発表しました。| Innocent Body-Shadow Mimics Physical Body

金澤さんとやっていた影プロジェクト(の初期の発見)がようやく「形」になった。

分野によって、あるいは、分野が同じでも研究者の立ち位置だとかによってで、何を「カタチ」とみなすか、というのは違ってくるはずと思う。小鷹研究室は、特定の分野の規範にガチガチに帰属しないように、、サイエンスの側にいるのかアートの側にいるのか、あるいは、工学にいるのか自然科学にいるのか、がよくわからないような曖昧なポジションを、結構、自覚的に取るようにしている。その分、小鷹研のイメージに、ネガティブな意味での”あやしさ”がついてまわることについては、半分、しょうがないと思っているし、同じあやしいなら、もう少し真っ当な「あやしさ」を目指したい、という気持ちもある。

少なくても、僕自身は、その「カタチ」を自然科学に置きたいと思っている。しかも、インパクトファクターのある国際ジャーナルの査読を通すこと(僕はこっちの分野に引っ越してきて日が浅いので、それなりに大変なことです)。これは結構はっきりしている。その土台のうえで、これからも、どんどんどんどんアヤシイことをやっていきたい。

河合隼雄の『影の現象学』という本の最初のところで、色々な事例が書いてあるように、影というのは、(とりわけ未開社会のなかで)身体の「分身」としてのイメージを体現してきたようなところがある。そういう名残は、今でも、例えば「影踏み」のような遊びの中に残っているともいえるし、あるいは、現代ではメディアアートの展示空間の中の重要なモチーフとして、かたちを変えて生き続けている、そんな風にいえるかもしれない。たしかに、影は、フロイト的な図式のなかで何かしらの象徴を担っているのだろう。ただ、金澤さんと影をテーマに何かをやると決めた時、僕は、(言葉は悪いけれど)そんな生ぬるい記述で影を理解したようにする気になるのは嫌だった。もっと、具体的に<からだ>に作用する「確かな変異」を探りたかった。

この論文の”発見”は、さかのぼること2年半前、「からだは戦場だよ2015」(ビッカフェ)の展示のための準備のなか、金澤さんの組み立てたアクリルの装置で、影スクリーンの下で浮遊させていた手を、ゆっくり持ち上げていっても、思っていたタイミングで上部の影スクリーンにぶつからないことで、すぐに直感した。手に覆いかぶさるような位置で影を見ると、「影のすぐ下ら辺に自分の手がある」という感覚に強く囚われた。その程で、手を持ち上げていくと、「まだぶつからない、まだぶつからない」と、妙に肩透かしを食らうような、変な感じになってしまう。これは、その展示の際に、ビッカフェで撮影したもの。

いろいろ、サーベイしている中で、この手と影の空間的配置が、「からだの錯覚」研究においてmoving rubber hand illusionと呼ばれるカテゴリーに対応していることがわかった。そのうえで、(これまでのMRHIの研究でラバーハンドとしての役割をなしてきた)ロボットハンドや人形、CGの手とは異なる、影の特殊性というのも、どうやら主張できそうだな、というのもわかってきた。端的に言って、影は、影自体として、強い引力を持っている。一緒に触るとか、一緒に動かすとか、そういうややこしいことする以前に、それ自体としてもっているイメージの力が確かにある。影と鏡、いろんな意味で偉大です。この辺の話は、プレスリリースに(部分的にですが)書いておいたので、よろしければ見ておいてください。映像も〜!!

(論文、ほんとは、もっといっぱい出したい。頑張ります。)

発表論文

Kodaka, K., & Kanazawa, A. (2017). Innocent Body-Shadow Mimics Physical Body. I-Perception, 8(3), 204166951770652. http://doi.org/10.1177/2041669517706520 OPEN-ACCESS

プレスリリース

手の位置感覚が「手の影」に引き寄せられることを発見 / 名古屋市立大学 日本の研究.com

実験の内容がわかる映像

影に引き寄せられる手(BODY-SHADOW ATTRACTION ILLUSION) YouTube

雑誌・早稲田文学の古谷利裕氏による論考のなかで「Recursive Function Space」を取り上げてもらってます。

2017.5.10発売の雑誌・早稲田文学に掲載されている古谷利裕氏(画家・評論家)による論考 『「わたし・小説・フィクション /『ビリジアン』といくつかの「わたし」たち」』のなかで、 先日の「からだは戦場だよ2017」で発表した「Recursive Function Space」 (小鷹研理・森光洋)を取り上げていただいています。

この論考では、柴崎友香の小説『ビリジアン』の主人公である山田解の、小説全体における時系列的な配置のあり方が主題的に論じられるのですが、山田解であるところの<わたし>の様相を詳細に読み解くうえでの「入り口」として、文学とは異なる形式を持つ領域で発表された3つの作品・装置の体験における<わたし>の変異が考察されています。このうちの2つが、ICCで昨年、一年間に渡って行われた展示『メディア・コンシャス』のなかで出品されていた、津田道子さんの「あなたは、翌日私に会いにそこに戻ってくるでしょう。」、谷口暁彦さん「私のようなもの/見ることについて」。そして、最後の一つが、小鷹研究室の「Recursive Function Space」(以下、RFS)ということになります。


 

率直に言って、例年岐阜で開催している研究室展示で、こぢんまりと公開しただけの(しかも学会発表すらしていない)RFSが、他の、実績のある作家の素晴らしい作品(僕自身、どちらの作品も現場で体験して、ひどく感銘を受けていました)と並べて取り上げてられていることには、大きな戸惑いを覚えると同時に、いろんな偶然(と少しばかりの必然)が重なって古谷さんのアンテナに引っかかって、そしてこうして論考の一部を成しているという現実に際して、(やはり率直に言って)とても幸運だったと思っています。

古谷さん自身は、RFSを体験されておらず(機会があれば、ぜひ僕からお誘いできればと思ってます)、執筆にあたっては、僕が3月下旬に公開した(「からだは戦場だよ2017」の記録を基に作成した)RFSのチュートリアル・ムービー、および解説ページを参考にしていただいたようです。論考には、解説ページの引用(注2)がありますが、関心のある方は、こちらから直接ご覧ください。

内容 LINK
RFSのステートメント WEB
TUTORIAL MOVIE YOUTUBE

ここでは、論考の中身については詳しく触れませんが、論考の一つの論点である、「<わたし>が<ここ>にいること(に関わる感覚)」が、「<わたし>がこの<わたし>であること(に関わる感覚)」と分かち難く結びついてしまっている、このいわば「自意識にとっての公理的な基底」に対してフィクションがどう介入するか、という問題意識は、「sense of self」という概念が徐々に市民権を得つつある(つまり、「sense of self」を操作可能な一つの変数とみなそうとする)実験科学の分野においても、とてもアクチュアルなものであるといえます。(一方で)めぼしい”物証”が期待できないであろう、こうした難しい課題を捌いていくうえで、そもそもこれまで、人類が芸術を(<わたし>がフィクションを)どのように受容してきたか(受容しているか)を参照項とすることは、重要な足がかりとなるはずです。小説世界における<わたし>が、(ちょうど『ビリジアン』で生じていたように)物理世界の時空とは異なる原理で、柔軟に変形し、不連続的に転換し、入れ替わり、、そのなかに読者である<わたし>が参加し、ときに<わたし>と<わたし>が共鳴する(そして、読者である<わたし>の組成が変調し、再編成されていく)。ここで生じているであろう、<わたし>と<わたし>が関係し合うパターンを、言語的あるいは数学的に掬い出し、その記述の一般性の強度を、異なるメディアにおいて成立している同型的なパターンを掬い出していくことによって、保証していこうとする試み。

古谷さんは、2017年4月27日の偽日記で、今回の論考について以下のように書いています。

偽日記(4月27日)

つまり、フィクションについて、「わたし」について、書きました。メディウム・スペシフィック的ではないフォーマリズムの実践の一つであるつもりです。

僕自身は、普段、認知心理学とか脳科学に分類されるだろう「からだの錯覚」を専門的に研究していますが、ここのところ、意識的に、その外側に出て行って、「どのような虚構(の呈示のあり方)が、現実の基盤を揺るがすのか」という問題意識で、漫才、美術、文学、演劇、、といった種々のメディアで、そのメディアのコードを自己言及的に侵食していくような作用を持つ作品に注目しています。(願わくば)そうしたアプローチに特有のパターンを統一的な共通言語で記述できればいいと思っている(僕自身は、このような視点を「メディア解剖学」と呼びたい)。その努力は、今後、「からだの錯覚」の研究へと戻っていって、そのような回り道から、大きなブレイクスルーが果たせるんじゃないか、と僅かながらの期待を抱きながら。その意味で、今回の古谷さんの水平的・横断的な実践には、とても共感できるところがあります。

最後に。古谷さんの論考だけでなく、今回の早稲田文学の特集「作られゆく現実の先で ポスト真実/人工知能時代のフィクションをめぐって」、むちゃくちゃ面白いです。僕自身は、最近の(いや、最近とか関係ないか)政治的状況には非常に疎いわけですが、「ポスト真実」という概念がリアリティーを持ってしまっている今日にあっては、「現実でないもの」を単に「虚構」と一括りにするのでなく、どのようなイマジネーションが「現実」と幸福な関係を結ぶことができるのか、という問題意識が浮上するのはとてもよく理解できる(久保昭博「ポスト・トルゥースあるいは現代フィクションの条件」)。フィクションとしか思えない宗教的なリアリティーの中に住まう民族が、しかし、全体主義的な方向へと瓦解していくことなく、豊かな人間関係を築きあげているように思えること、こうした人類学的な観察を丁寧に検討していくことによって、いまいちど、イマジナリーな営みの価値を掬い出していく、という切り口はとても興味深いなぁ、と(奥野克己「ポスト真実の時代、現実とフィクションの人類学」)。ここのところ、文芸誌なんて全く読んでなかったわけですが、それぞれの論考が、それぞれに現在の社会状況の深いところとアクチュアルに共鳴しているのがわかり、とても素晴らしい特集だと思った。勉強になってます。(こだか)

展示の記録と周辺|からだは戦場だよ 2017

いま、これを書き出したのが3月の下旬なので、1月下旬の「からだは戦場だよ2017」が終わって、もう2ヶ月近く経ってしまってるわけだ。その間、今回の展示の主要なプレイヤーだった3人も、(つい先日のことだけど)大学(あるいは大学院)を卒業していった。時間というのはおそろしいもので、あの特定の時期、あれだけ小鷹研を振り回していたイベントが、今となっては、もう完全に「過去のもの」となりつつある。まもなく4月に入って授業週間に入ったら、心的空間のなかでそれらの記憶が後退していくスピードはさらに加速するだろうし、そうすると、それらは、まがりなりにも「過去のもの」と呼べていた(すがたかたちのある)ものから、もはや原型を留めない「生前の話」のようなものへと溶解し、それらを元の形に復元するためには、新しい展示を始めるくらいの情熱が要求されるかもしれない。生前にまで遡って、何かを詳細に書き起こすような技術なり情熱なりを僕は持ち合わせていないし、どうせ、来年になったら、また新しい展示がはじまって、今回の展示の記憶なんて、完全に上書きされてしまうだろう。

こんな無駄話で字数をいたずらに埋めるくらいなら、はやく本題に入ればいいと思う。心から。

↓ 本題

さて、かなりの不安要素を残したまま冬休みに入ってしまって、年末年始は悶々としながら実家を転々としていたわけだけど、1月に入って、早朝(始発あるいは準始発)から夜遅くまで、戦場の展示物のためだけに、自分の持っている思考と身体の全てのリソースを捧げるようになって、学生とのコミュニケーションも、もう、うざいくらいに密になって(普段そんなに密じゃないから許されると思う)、それで少しずつ事態が好転してきた。1月中旬あたりで、「今年もいけるぞ」って確信した。いや、ひょっとして画期的にいいのではなんて思ってしまったり。

このツイートなんかは、展示前の、攻撃的なモードがよくでている。でも、今回も前回も、体感的に、予告編を見たうえで判断して来てくれた人が多かったような気がする。予告編すごく大事。

全体的な話として、二日間通して多くのお客さんに恵まれたのは嬉しかった。何より、(とりわけ日曜日がそうだったんだけど)この展示を、じっくり体験しようという明確な目的を持って来てくれている人がとても多かった。これはオフレコかもしれないけど、展示後に、ビッカフェの堀江さんと話していた時に、「今回は、お客さんの質がすごくよかった」と言ってくれたのが嬉しかったし、その言葉には、実際、すごくリアリティーがあった。来てくれた人(作家とか大学関係者が多いわけなんだけど、ごくごく普通の人も居る。でも話していると、ごくごく普通ではないことがわかる)は、みんな、どこかで、何かしら、自分の主観世界の中に眠っている幽霊に対して半ば自覚的な人たちばかりで、そういう人は、みんな独特の雰囲気を持っている。それで自然と話も盛り上がる。だから、イベントとしての「からだは戦場だよ」が醸している独特な雰囲気であったり世間との距離感みたいなものは、ビッカフェという場所と、そこに集まるお客さんによって、かなりの程度、色付けられている。展示物は、そうした磁場の中にあって、自動的に複数的な文脈を獲得していく。3年目にして、こうした共犯的な関係は、決定的なものとなったと思う。

展示の様子については、ぜひとも記録映像を見てほしい。僕と四人の学生が手持ちのカメラで撮影した、それ自体は断片的な瞬間をつなぎ合わせた、粗い粗い映像の集積ではあるけれど、全編を通して見てもらえれば、サイエンスとして捉えようとしても、アートとして捉えようとしても収まりの悪い、小鷹研の展示に特有な雰囲気が十二分に露出していることがわかると思う。


以下で、今回出展した5つの制作物について、備忘も兼ねて、とりわけ制作に至る背景的なところを中心に書き連ねていこうと思う。

「ポールを引っ張り合う、腕が伸びる (仮)」
森光洋

去年やった「アンダーグラウンド・ダイバー」(曽我部さん)の別バージョンであるとともに、自重変化を身体イメージの長さと連動させるシリーズの第二弾。曽我部バージョンにおける「棒にぶら下がる」というアクションを、今回は、実験者を一人介在させて「棒を引っ張り合う」というインタラクションに置き換えた。こういう環境をつくることで、自重変化が、なんらかの形で筋肉の負荷と相関するという点が重要。この種のアプローチ(1:筋肉の負荷量のバロメータとして自重変化に着目すること、2:自重変化と身体イメージのスケールを関連づけること)は、今のところ、小鷹研独自のアイデアだと考えている。自重は、Wii Boardで取得するので、体験者は何も装着する必要がないという点も重要。

今回のインタラクションでは、体験者の側は、ポールを握ったまま、腕をピンと伸ばした状態で、体重を後ろに預けているので(つまり、実験者の側が、ポールを介して、体験者の体重を支えているという関係)、実際のところ、「引っ張り合う」というような能動的な駆け引きが行われているわけではない。だから体験者側のインタラクション感としては、去年の曽我部版「ぶらさがり」と本質的に変わっていなくて、あくまで、受動的な関わり方をしている。それで、なんとなく、この種の受動的に「状況に投げ出されている感」こそが、アブノーマルな身体イメージを自己に帰属できるかどうかを左右する、重要なファクターとなっているという気がしている(この点は、sense of agencyに関する一般的な言説とは逆かもしれない。僕自身は、sense of agencyの生起条件として、一般に「主体性」の関与が強調されすぎているように感じて、その点には違和感を感じている)。

身体の一部が変形していく有様を目の前にしたとき、その変形を促している主体が自己の側にあるのか、外部(他者の側)にあるのか。普段経験したことのないようなイメージの変換を受け入れるためには、イメージの変異自体は自己に帰属させつつも、エージェントは他者に帰属させる、という戦略を、認知はいろんなところでとっているのではないか統合失調性における主体のあり方なんかを絡めていくと、より面白い議論に発展できるかもしれない。

「液体の屈折特性を利用した身体像の光学誘導型グリッチ」
宮川風花

グリッチという手法(というかコンセプト)は、音楽やビジュアルイメージの領域で散々やられてきたことで、それ自体で何か新しいというのは一切ないと思うけれど、宮川さんの卒論の中では、従来のアプローチとの違いとして、「コンピュータを使わない光学誘導型のグリッチ」であること、そして、「グリッチされる対象が鑑賞者自身」という点が強調されている。

前者の「コンピュータを使わない」という点については、去年の秋に「おとなのからだを不安にさせる13のワーク」というワークショップを企画した頃に考えていたことと地続きのところにあって、HMDやらディスプレイやらスクリーンやら、というのは、舞台セットそのものがいかにも非日常的過ぎて、その中でどれほどリアルな表現が志向されていようとも、電源を切ると(HMDを外すと)同時に夢から覚めてしまうようなところがある。だから、日常的な文脈の価値は、メディア空間への依存度が高まれば高まるほどにむしろ高騰していく。一方で、そういった反面教師的なかたちで日常に目を向けていく過程で、コンピュータ的なリアリティーが日常の側に逆輸入されていく、ということが往々にしてある。メディアの教養を内面化してしまった者にとって、「日常が日常として自立している風景」へのアクセス権は完全に失われている。わざわざ日常に属するコンポーネントを使って身体像をグリッチしようとする、「ポスト・グリッチ」的な発想こそが、そうした抜き差しならないメディアと日常空間の関係の一つの顕れである。

いわゆる、「グリッチアート」的なるものと違って、今回の展示では、グリッチが体験者の主観的な身体像そのものに直接的に介入している、という点は強調しても強調しすぎることがない。マネキンの顔にグリッチをかけると、マネキンの顔はバラバラに分離する。しかし、その分離の様相は、極めて安定している。一方で、自分の顔にグリッチをかけたものを鏡を通して見ると、自分の顔のバラバラ加減、そのものが、また時間的にバラバラに移行してしまうので(おそらくは認知過程において、焦点がどこにも安定的に収束できないのだと思う)、いつまで経っても空間的に安定したバラバラの像を結ばない。何よりも、この主観的な像を形成するアルゴリズムは、各人に固有の認知過程の中に埋め込まれているので、決して、カメラによって捕捉することができない。この2種類(マネキン/自分の顔)の鑑賞体験を比較することは、ちょうど他人が自分を観察するようなかたちで、自分が自分自身を観察しようとする際につきまとう原理的な困難を考えるうえで、とてもいい教材となっているように思う。

「動くラマチャンドランミラーボックス(シリーズ)」
石原由貴

これは、石原さんが現在取り組んでいる博士研究の、ちょっとした息抜きみたいな位置付けで、ウゴラマから派生した体験装置で3点を出展した。(石原さん着想の)足をぶらんぶらんさせるというのは、シンプルだけど、面白いアイデアだったと思う。まさに「たったこんだけのことで!!」(@温度さん)、という感じ。

「FIBER FINGERS」
深井剛

まずは、この作品の背景から。

昨年の夏に、新宿のICC(Inter Comunication Center)の展示『メディア・コンシャス』(WEB)の中で、エキソニモの「BODY PAINT」(WEB)を見て、超絶宇宙級の衝撃を受けて、それがきっかけでポスト・インターネットというメディアアート発のムーブメントに注目するようになった。ざっくりな印象で言うと、ディスプレイの中に仮住まい的に構成されたメディア空間(記録されたもの、編集されたものによって構成される空間)と、その外部で、より長いスパンで自立しているようにみえる物理空間との関係を、単純な対立関係としてではなく、相互に依存し合うシステム論的(生態系といってもよい)な視座の上で捉え直そうとしている、という感じだろうか。彼らは、(ディスプレイが現実に/現実がディスプレイに)「溶け合う」というような表現を使ったりする。工学者からは絶対に発想されない、非常に文学的な言葉だな、と思ったりするわけだけど、実際にエキソニモの作品を見たりすると、この「溶け合う」という表現が、(ある場合では)事態をかなり正確に名指したものであるということがわかる。おそらく、美術というのは、多かれ少なかれ、現実と虚構との(本来)抜き差しならない関係を、それぞれの仕方で扱おうとするものであるからして、ポスト・インターネットが、美術の歴史のなかで、何か特別に新しい視座を提供しているというよりは、そういった美術の伝統を、新しい道具を使って、正しく継承しているという言い方が正確なのかもしれない。そのうえで、僕がこの一連のムーブメントに関心を持つのは、ポスト・インターネットが、美術が伝統的に題材にしてきたであろう諸問題を、非常にわかりやすいかたちで鑑賞者に提示してくれているようなところがあって、結果的に、美術という難解な装置の、優れたメタファーとして機能している(その意味では、美術であると同時にメタ美術でもあるような)、と、少なくとも僕にとってはそんな魅力がある。

この「わかりやすい」という印象は、作品の受容において、体感レベルの手応えが果たす役割が大きくなっていること、とも関係している。つまり、(美術のコンテクストを知っていようが知っていまいが発動するような)物理空間とディスプレイ内空間との区別が失効するような錯覚が現に生じること、そのことそのものが作品の価値の重要な側面を構成してしまうこと。これは、ある意味では、美術が自然科学の言語で記述されるような事態を指していることになるんだけど、逆から見れば、自然科学(および工学)が、従来であれば美術にしか処理できなかった主観世界の諸相にメスを入れるようになってきたという側面もあるわけで、つまり、科学の方から美術に歩み寄っているという見方もできる。

さて、この深井くんの「FIBER FINGERS」には、美術発のポスト・インターネットのアイデアと、自然科学発の「からだの錯覚」のアイデアがふんだんに投入されているようなところがあって、小鷹研としてはかなり新しい試みだったんだけど、それらが相互に有機的に絡み合うところまで持っていけたかというと、「からだの錯覚」の部分の設計の甘さもあり、あと一ヶ月くらい時間が欲しかった、というのが正直な気持ち。こういう瞬間瞬間を捉えた写真(↓)はすごく気に入っているんだけど。

この作品では、ラティスの真ん中が長方形にくり抜かれていて、そこに黒い布が貼られている。そのうえで、プロジェクターを使って、そのくり抜かれた領域に、外部との切れ目がないように、あらためてラティスのパターンが投影されている。プロジェクションマッピングにお決まりの、「部屋を真暗にして投影面を際立たせる」というようなことはしていない。あくまで、日常的な光環境のなかに、そっとプロジェクションを忍ばせる。その結果、(これはこの作品にとって決定的に重要なことなんだけど)展示物をぱっと見て、真ん中の部分がプロジェクターで投影されたものであることに気づく人はほとんどいない。ここでは、「投影面」と「投影されたもの」との区別が、少なくてもある質感のレベルにおいて、失効してしまっているのだ。実際の現場では、布にあらかじめラティスのパターンがプリントされているようにみえるというのが一般的な感じ方だと思う。

このプロジェクトにとっては、プロジェクションマッピングを使った表現特有の「かっこいい」演出に対抗するようなメタ表現を模索することが決定的に重要だった。実世界を舞台にするといいながら、自然光はノイズとみなされ、投影面および投影面近傍のオブジェクトの質感(テクスチャ、色感、、)は極力排除される。そういった周囲の涙ぐましいお膳立てのうえで、いかにも現実と乖離したおあつらえ向きのビジュアルが投影される。そのような、空間が本来有している豊潤な資源を黙らせることによって成立する、いかにも全能的なアプローチの急所を狙って、くさびを打ち込むこと。プロジェクションマッピングという表現形態の内側に踏みとどまりながら、プロジェクションマッピング的な表現の魅惑(≒ 呪縛)から距離をとり、あわよくば、その急所を突いて、鮮やかな転覆を図ること。そのようなカウンター表現の基本原理として、「自然光をノイズとみなす」という暗黙の前提を解除するという条件設定は、シンプルでありながら極めて鋭利な切れ味を持っている。来年も、この原理から出発して、新しいメタ表現を模索したいと思う。

「RECURSIVE FUNCTION SPACE」

前年度に信田くんと作った「I am a volleyball tossed by my hands」(映像)から連なる「視点変換シリーズ」の第二弾。「外部から自分を見る」ということにすごく興味があって、ただ認知科学的な観点からすると、鏡やらモニタを通して見る自分に対するリアリティーの”軋み”は、rubber hand illusionでターゲットとなっているような深いレベル(身体所有感)の変調作用からは程遠い。自分自身(のようなもの)と対面状況となったときに、自分がここにいると同時に、そちら側にもいるというような同時性にかかわるリアリティーを、どのような尺度で計量するのか、その方法論については、実は、実験科学の分野でも未だ十分に確立されているとはいえない。そもそも、ナイーブに「外部から自分を見たときにそれが自分だと感じるようなリアリティー」と表現されるようなものが、単に、鏡に映っているものが自分であることを認識することと、どう違うのか。こういった基本的なことについても、僕の知る限り、学術的なレベルで十分に議論されているとはいえないと思う。

僕の考えでは、この種のリアリティーを、「鏡の手前にいる本当の自分」と「鏡の側にある虚像」というような二項関係として捉えるのは、問題を極めて矮小化しているような気がしてならない。というのは、鏡やらモニタを通して自分を見ているような状況において、「自分がこちら側にいる」という手応えは決して崩れることがない。鏡を見るという行為によって、「いま・ここ・わたし」の基盤は、いささかも動揺しないばかりか、むしろ、「自分が現実にここに存在する」ということに対する現状の揺るぎなさをより強化してしまうようなところがあるその基盤は、むしろ鏡に自分が映らない場合にこそ、致命的なダメージを被るだろう)。こういった二項関係においては、虚像が、現実の身体に絶対的に従属してしまっているのだ。

「自分がここにいると同時に、虚像の側にもあるというような同時性」にかかわる感覚。この深遠なるリアリティーを解く鍵は、やはり、主客の方向性が極めて錯綜する幽体離脱にこそ求められるべきである。そのような状況では、幽体する視点だけを借りて、オリジナルの自分の肉体を眺める経験(客体→主体)と、肉体は相変わらず視点の側にありつつも、モニタ上の自分を眺めるような経験(主体→客体)とが、ないまぜに共存するような事態が発生している(にちがいない)。こういう事態に際してはじめて、自分の<自分性>を深いところで支えている何かしらにメスが入り、その副作用として、あるいはその補償として「不安」が生じる。

さて、RFS(Recursive Function Space)については、語るべき周辺的事項がたくさんありすぎて、その割には、前置きが長くなりすぎてしまったので、どうしたものか。なにを語るべきか、あるいは何も語らないべきなのか。

RFSを着想する前段で考えていたことについて、別の視点からもう少し書いてみたい。

先述した、昨夏に訪れたICCで行われた展示「メディア・コンシャス」の出品作家のうちの一人、谷口暁彦氏の「思い過ごすものたち」の記録映像を眺めていたときに、展示空間そのものが、コンピュータ上で編集された3DCGの一つのシーンにみえてしまうような、妙な感覚に襲われた。現実の空間を編集空間として、あたかもソフトウェアを操作するような按配で、種々のオブジェクトを三次元空間の特定の位置に配置していくことで展示空間が組み立てられていく。それらのオブジェクト(=コンポーネント)の間で、お互いの変数を参照しつつも自己の状態を更新するような相互作用を設定することで、展示空間に時間が流れ始める。そのなかで、ある特定の条件を満たすような更新式を定義すると、展示空間のなかで、ある特異的な「効果」が発生する。以上のような描写は、展示空間の風景を、努めて「形式的」な記述へと展開しようとするときの、一つの「切り取り方」であるといえよう。

「思い過ごすものたち」の展示空間では、iPadが決定的に重要なコンポーネントとして機能しており、iPadに映されたCG表現の質感が、iPadの外部に出て、展示空間全体を侵食していくようなところがある。編集空間A(展示空間)の内部に、別の編集空間B(iPad)がコンポーネントとして配置され、そのうえで、編集空間Bが編集空間Aに(or/and AがBに)擬態するような何かしらのインタラクションを埋め込むことによって、編集空間同士の階層性が無化されていく。おそらくは、形式的に記述され得る、数学的な効果として。

例えば、力学系が、時間発展式の内部変数を少しずつ変えていくことで、周期性を示したり、その周期が増減したり、カオスを示したり、一点に収束していったり、、といったかたちでシステムの挙動が分岐していくのを形式的に整理できるのとちょうど同じような按配で、『思い過ごすものたち』の展示空間で起きていたであろう「現実が括弧付きの現実に後退するような錯覚」の生起条件を定式化できないだろうか。極めて形式的な言語体系である論理学において、自己言及性の侵入の深さを変えていくことで、システムの完全性が維持されたり損なわれたり(パラドックスを回避したり、できなかったり)という分岐のあり方が、やはり厳密に定式化できるのと同じように、人間の主観において現実と虚構の境界に対する認識が安定していたり不安定になったり、というあたりの分岐点の様相を、展示空間内の複数のコンポーネント間の再帰的なインタラクションとして、形式的に記述できないだろうか。

自己言及性の問題は、当然ながら認知の問題(ホムンクルスの無限後退)とも強く絡んでいる。したがって、美術の領域で、しかし徹底的に形式的なやり方で、「展示する空間」と「展示される空間」の階層性を無化するような表現を志向することは、結果的に、「イメージする自分」と「イメージされた自分」とが入れ子的に構成されてしまう宿命を負った、意識を持った僕たちが、普段どうやって離人症的な不安を回避できているのか、あるいは、どのような条件で明晰夢が発生するのか、といった認知システムに特有な問題を解くための手がかりを与えてくる可能性がある。と、まぁ、この話は、結構な広がりを持っているはずなのだ。

この辺の話は、部分的に、展示初日の出前講義でもやった。

以下が、その時、話題に出した作品たち。

  • the truman show
  • ジャルジャル『一人漫才』 映像 『変な奴』 映像
  • 世にも奇妙な物語 『プリズナー』 映像
  • エキソニモ『BODY PAINT』 WEB
  • 谷口暁彦『思い過ごすものたち』 映像
  • 永田康祐『The way it is』映像

とりわけ、ちょうどRFSを作っている最中の年末に、トーキョーワンダーサイトまで見に行った、永田康祐さんの展示『Therapist』は、総体として、「記録されたもの」の蘇生をめぐって、記録メディアと物理世界のオブジェクトを等価なコンポーネントとしてとらえながら、空間全体を形式的に記述しようとする強い意志が感じられて、とても印象的であったと同時に、すごく刺激を受けてきた。

いきなり話が飛ぶようだけど、出前講義の中心的な話題として、ジャルジャルのメタ漫才の話をした。ツッコミを「現実の規範を代弁するプレイヤー」として、ボケを「こうであったかもしれない現実を提示する虚構の側のプレイヤー」であるとみなすと、漫才もまた、現実と虚構の間の抜き差しならぬ関係を、多様なかたちで記述できる可能性を持っていることがわかるし、やり方によっては、硬直した現実に対してソリッドに風穴を開けることも可能なはずだ。しかし、ほとんどの漫才なりコントは、「鏡を見て、自分がここにいることを安心する」のと同じように、ただ単に虚構を茶化しつつ現状追認で終わってしまうことが多いため、知的な領域で議論される機会になかなか恵まれていないように思う。

この点で、ジャルジャルの漫才なりコントの構造が有しているメタ構造的な特異性は際立っている。例えば、このコントとか。

僕は、かなり初期からジャルジャルの動向を追い続けているのだけれど、最近になって、ようやく、彼らの特異性を言葉にできるかもしれないという手応えをつかみつつある。今回は、RFSを理解するための近道になればといいと思って、思い切って、レクチャーの中の中心的な教材としてとりあげてみたし、結構、反応もよかったと思う。実は、RFSは、ジャルジャルの最新のネタである「一人漫才」におけるボケとツッコミの関係を、「イメージする自己」と「イメージされる自己」との関係に置き換えて、仮想空間の中で再構成したもの、というような切り取り方も可能だったりすので、その辺の関連性を、図式的に説明していったつもり。この(漫才と仮想世界を関連付けて説明する)方法は、僕自身もやっててすごく楽しかったので、今後、大学の授業の中で積極的に取り入れていきたいと思っている。

こんな具合に、自分が面白いと思えるものについて、ジャンルとか関係なく、それらが基底において何を共有しているのかについて問い続けること。それによって、たまに、思ってもみないところに補助線が引かれて、見たことのない風景が立ち上がることがある。「面白い!」のあとに「なぜ面白いのか」をしつこく問い続けることが、僕にとってはすごく大事なこと。

まだ全然つづきですが、さすがに10000字を目前に控えているので(赤を入れていたら10000字超過しました)、筆を置くことにします。展示のまとめというよりは、2016年度に小鷹研が思考していたことを、清算するいい機会となりました。(小鷹)