9月の小鷹研、いろいろやってます(認知科学会、EC、名古屋市科学館)。

9月の小鷹研、その1
  • 9月14日、JCSS2017(認知科学会)のOrganized Sessionで、小鷹が「HMDと身体」に関わる研究発表をしました。この論文PDFは事前よりHPで公開されており、少なくない方々に読んでもらっているようです。

論文のPDF

  • この論文では、まずは「何らかのイメージに自分を投射する」うえで、OwnershipとAgencyが果たしうる役割を考えています。両者とも感覚間共起性をベースに「自分」を外部へと投射するわけですが、Ownershipは、イメージに課されれる整合条件が強すぎるし、投射距離も短い。

  • Agencyはといえば、イメージはなんでもいいし、投射距離もどこまでもいける。空間的自由度は一気に上がるが、実は、Agencyは「0から身体を立ち上げることができない」。さらに、イメージに対してアクティブに関わらないといけない。関わり続けないといけない。。

  • 例えば、VR上でアバターに身体を投射したい場合、Ownershipでは近視眼的すぎるし(整合条件的に)対面できないし、一方で、Agencyでは、TVゲームのマリオで達成されていることと何ら変わらないわけです。せっかくHMDという新しい環境があるのだし、違う道を探りたい。

  • そこで、第三の道として「三人称定位」という位相を考えたい。この「三人称定位」では、対象に対してアクティブに関わる必要はないし、空間的自由度も外側から俯瞰できる程度には上がる。Ownershipほど強い「身体」ではないにせよ、そこに「自分が所属していること」が明確に「感覚」される。

  • このような位相を考えるうえで、幽体離脱(OBE)というある種の「認知モード」を手がかりにしたい。幽体離脱状態では、そもそも半数以上が自分の動きをコントロールできないから、PassiveなSelfを構成できるし、多様な視点から自分を俯瞰することもできる。距離の自由度も上がる

  • 確かに、幽体離脱は、OwnershipとAgencyでは要求されている、いくつかの空間条件、同期条件が課されないことは魅力的であるわけだが、、、他方、そもそも、何か「起動スイッチ」となっているのかがわからない。起動するための「新しい条件」というのを探らないといけない。。

  • 長くなったのでやめますが、こんな感じで、「HMD空間に身体を入れる」うえで、OwnershipともAgencyとも別の道を探るアプローチもあり得るのではないか、という提案がベースとなっており、その意味で、結構「大きい話」をしています。

  • 発表は、意外と反応がよかったです。オーガナイズした先生方からも大変ありがたい言葉をいただいたし、知能ロボティクスの浅田稔先生がたまたま聞きに来ていて(質問もしてくれた)、ロボットとownershipの研究の可能性について発表後にディスカッションできたのは、すごくラッキーだった。

  • 論文に関しては、画家で評論家の古谷利裕による偽日記の中でも取り上げていただいています。このポストのおかげで、僕の論文を、多くの人が読んでくれたみたいでうれしいです。ある種の「要約」として読まれるのもいいかもしれません。論文長いし。

偽日記へのリンク

9月の小鷹研、その2

9月の小鷹研、その3

academistに論考を寄稿しました。

6月にacademistに論考を寄稿しました。

影の論文が出てプレスリリースを出したところで、編集部からお話をいただきました。
ありがたいことです。

もうだいぶ前の話になりますが。。

字数の制約上、いろいろ端折ったところがあります。特に、ドリフト(位置感覚の移動)と身体所有感(身体を所有している感覚)の関係というのは実のところ、よくわかってないところがあるんです。ドリフトも身体所有感も、感覚間同期に起源を持ちながらも、どうやら異なる経路で変調されているらしい。だから、実験系によって相関したりしなかったりする。直接的な因果関係はないと考えたほうがよいみたい。

論文を発表しました。| Innocent Body-Shadow Mimics Physical Body

金澤さんとやっていた影プロジェクト(の初期の発見)がようやく「形」になった。

分野によって、あるいは、分野が同じでも研究者の立ち位置だとかによってで、何を「カタチ」とみなすか、というのは違ってくるはずと思う。小鷹研究室は、特定の分野の規範にガチガチに帰属しないように、、サイエンスの側にいるのかアートの側にいるのか、あるいは、工学にいるのか自然科学にいるのか、がよくわからないような曖昧なポジションを、結構、自覚的に取るようにしている。その分、小鷹研のイメージに、ネガティブな意味での”あやしさ”がついてまわることについては、半分、しょうがないと思っているし、同じあやしいなら、もう少し真っ当な「あやしさ」を目指したい、という気持ちもある。

少なくても、僕自身は、その「カタチ」を自然科学に置きたいと思っている。しかも、インパクトファクターのある国際ジャーナルの査読を通すこと(僕はこっちの分野に引っ越してきて日が浅いので、それなりに大変なことです)。これは結構はっきりしている。その土台のうえで、これからも、どんどんどんどんアヤシイことをやっていきたい。

河合隼雄の『影の現象学』という本の最初のところで、色々な事例が書いてあるように、影というのは、(とりわけ未開社会のなかで)身体の「分身」としてのイメージを体現してきたようなところがある。そういう名残は、今でも、例えば「影踏み」のような遊びの中に残っているともいえるし、あるいは、現代ではメディアアートの展示空間の中の重要なモチーフとして、かたちを変えて生き続けている、そんな風にいえるかもしれない。たしかに、影は、フロイト的な図式のなかで何かしらの象徴を担っているのだろう。ただ、金澤さんと影をテーマに何かをやると決めた時、僕は、(言葉は悪いけれど)そんな生ぬるい記述で影を理解したようにする気になるのは嫌だった。もっと、具体的に<からだ>に作用する「確かな変異」を探りたかった。

この論文の”発見”は、さかのぼること2年半前、「からだは戦場だよ2015」(ビッカフェ)の展示のための準備のなか、金澤さんの組み立てたアクリルの装置で、影スクリーンの下で浮遊させていた手を、ゆっくり持ち上げていっても、思っていたタイミングで上部の影スクリーンにぶつからないことで、すぐに直感した。手に覆いかぶさるような位置で影を見ると、「影のすぐ下ら辺に自分の手がある」という感覚に強く囚われた。その程で、手を持ち上げていくと、「まだぶつからない、まだぶつからない」と、妙に肩透かしを食らうような、変な感じになってしまう。これは、その展示の際に、ビッカフェで撮影したもの。

いろいろ、サーベイしている中で、この手と影の空間的配置が、「からだの錯覚」研究においてmoving rubber hand illusionと呼ばれるカテゴリーに対応していることがわかった。そのうえで、(これまでのMRHIの研究でラバーハンドとしての役割をなしてきた)ロボットハンドや人形、CGの手とは異なる、影の特殊性というのも、どうやら主張できそうだな、というのもわかってきた。端的に言って、影は、影自体として、強い引力を持っている。一緒に触るとか、一緒に動かすとか、そういうややこしいことする以前に、それ自体としてもっているイメージの力が確かにある。影と鏡、いろんな意味で偉大です。この辺の話は、プレスリリースに(部分的にですが)書いておいたので、よろしければ見ておいてください。映像も〜!!

(論文、ほんとは、もっといっぱい出したい。頑張ります。)

発表論文

Kodaka, K., & Kanazawa, A. (2017). Innocent Body-Shadow Mimics Physical Body. I-Perception, 8(3), 204166951770652. http://doi.org/10.1177/2041669517706520 OPEN-ACCESS

プレスリリース

手の位置感覚が「手の影」に引き寄せられることを発見 / 名古屋市立大学 日本の研究.com

実験の内容がわかる映像

影に引き寄せられる手(BODY-SHADOW ATTRACTION ILLUSION) YouTube

雑誌・早稲田文学の古谷利裕氏による論考のなかで「Recursive Function Space」を取り上げてもらってます。

2017.5.10発売の雑誌・早稲田文学に掲載されている古谷利裕氏(画家・評論家)による論考 『「わたし・小説・フィクション /『ビリジアン』といくつかの「わたし」たち」』のなかで、 先日の「からだは戦場だよ2017」で発表した「Recursive Function Space」 (小鷹研理・森光洋)を取り上げていただいています。

この論考では、柴崎友香の小説『ビリジアン』の主人公である山田解の、小説全体における時系列的な配置のあり方が主題的に論じられるのですが、山田解であるところの<わたし>の様相を詳細に読み解くうえでの「入り口」として、文学とは異なる形式を持つ領域で発表された3つの作品・装置の体験における<わたし>の変異が考察されています。このうちの2つが、ICCで昨年、一年間に渡って行われた展示『メディア・コンシャス』のなかで出品されていた、津田道子さんの「あなたは、翌日私に会いにそこに戻ってくるでしょう。」、谷口暁彦さん「私のようなもの/見ることについて」。そして、最後の一つが、小鷹研究室の「Recursive Function Space」(以下、RFS)ということになります。


 

率直に言って、例年岐阜で開催している研究室展示で、こぢんまりと公開しただけの(しかも学会発表すらしていない)RFSが、他の、実績のある作家の素晴らしい作品(僕自身、どちらの作品も現場で体験して、ひどく感銘を受けていました)と並べて取り上げてられていることには、大きな戸惑いを覚えると同時に、いろんな偶然(と少しばかりの必然)が重なって古谷さんのアンテナに引っかかって、そしてこうして論考の一部を成しているという現実に際して、(やはり率直に言って)とても幸運だったと思っています。

古谷さん自身は、RFSを体験されておらず(機会があれば、ぜひ僕からお誘いできればと思ってます)、執筆にあたっては、僕が3月下旬に公開した(「からだは戦場だよ2017」の記録を基に作成した)RFSのチュートリアル・ムービー、および解説ページを参考にしていただいたようです。論考には、解説ページの引用(注2)がありますが、関心のある方は、こちらから直接ご覧ください。

内容 LINK
RFSのステートメント WEB
TUTORIAL MOVIE YOUTUBE

ここでは、論考の中身については詳しく触れませんが、論考の一つの論点である、「<わたし>が<ここ>にいること(に関わる感覚)」が、「<わたし>がこの<わたし>であること(に関わる感覚)」と分かち難く結びついてしまっている、このいわば「自意識にとっての公理的な基底」に対してフィクションがどう介入するか、という問題意識は、「sense of self」という概念が徐々に市民権を得つつある(つまり、「sense of self」を操作可能な一つの変数とみなそうとする)実験科学の分野においても、とてもアクチュアルなものであるといえます。(一方で)めぼしい”物証”が期待できないであろう、こうした難しい課題を捌いていくうえで、そもそもこれまで、人類が芸術を(<わたし>がフィクションを)どのように受容してきたか(受容しているか)を参照項とすることは、重要な足がかりとなるはずです。小説世界における<わたし>が、(ちょうど『ビリジアン』で生じていたように)物理世界の時空とは異なる原理で、柔軟に変形し、不連続的に転換し、入れ替わり、、そのなかに読者である<わたし>が参加し、ときに<わたし>と<わたし>が共鳴する(そして、読者である<わたし>の組成が変調し、再編成されていく)。ここで生じているであろう、<わたし>と<わたし>が関係し合うパターンを、言語的あるいは数学的に掬い出し、その記述の一般性の強度を、異なるメディアにおいて成立している同型的なパターンを掬い出していくことによって、保証していこうとする試み。

古谷さんは、2017年4月27日の偽日記で、今回の論考について以下のように書いています。

偽日記(4月27日)

つまり、フィクションについて、「わたし」について、書きました。メディウム・スペシフィック的ではないフォーマリズムの実践の一つであるつもりです。

僕自身は、普段、認知心理学とか脳科学に分類されるだろう「からだの錯覚」を専門的に研究していますが、ここのところ、意識的に、その外側に出て行って、「どのような虚構(の呈示のあり方)が、現実の基盤を揺るがすのか」という問題意識で、漫才、美術、文学、演劇、、といった種々のメディアで、そのメディアのコードを自己言及的に侵食していくような作用を持つ作品に注目しています。(願わくば)そうしたアプローチに特有のパターンを統一的な共通言語で記述できればいいと思っている(僕自身は、このような視点を「メディア解剖学」と呼びたい)。その努力は、今後、「からだの錯覚」の研究へと戻っていって、そのような回り道から、大きなブレイクスルーが果たせるんじゃないか、と僅かながらの期待を抱きながら。その意味で、今回の古谷さんの水平的・横断的な実践には、とても共感できるところがあります。

最後に。古谷さんの論考だけでなく、今回の早稲田文学の特集「作られゆく現実の先で ポスト真実/人工知能時代のフィクションをめぐって」、むちゃくちゃ面白いです。僕自身は、最近の(いや、最近とか関係ないか)政治的状況には非常に疎いわけですが、「ポスト真実」という概念がリアリティーを持ってしまっている今日にあっては、「現実でないもの」を単に「虚構」と一括りにするのでなく、どのようなイマジネーションが「現実」と幸福な関係を結ぶことができるのか、という問題意識が浮上するのはとてもよく理解できる(久保昭博「ポスト・トルゥースあるいは現代フィクションの条件」)。フィクションとしか思えない宗教的なリアリティーの中に住まう民族が、しかし、全体主義的な方向へと瓦解していくことなく、豊かな人間関係を築きあげているように思えること、こうした人類学的な観察を丁寧に検討していくことによって、いまいちど、イマジナリーな営みの価値を掬い出していく、という切り口はとても興味深いなぁ、と(奥野克己「ポスト真実の時代、現実とフィクションの人類学」)。ここのところ、文芸誌なんて全く読んでなかったわけですが、それぞれの論考が、それぞれに現在の社会状況の深いところとアクチュアルに共鳴しているのがわかり、とても素晴らしい特集だと思った。勉強になってます。(こだか)

展示の記録と周辺|からだは戦場だよ 2017

いま、これを書き出したのが3月の下旬なので、1月下旬の「からだは戦場だよ2017」が終わって、もう2ヶ月近く経ってしまってるわけだ。その間、今回の展示の主要なプレイヤーだった3人も、(つい先日のことだけど)大学(あるいは大学院)を卒業していった。時間というのはおそろしいもので、あの特定の時期、あれだけ小鷹研を振り回していたイベントが、今となっては、もう完全に「過去のもの」となりつつある。まもなく4月に入って授業週間に入ったら、心的空間のなかでそれらの記憶が後退していくスピードはさらに加速するだろうし、そうすると、それらは、まがりなりにも「過去のもの」と呼べていた(すがたかたちのある)ものから、もはや原型を留めない「生前の話」のようなものへと溶解し、それらを元の形に復元するためには、新しい展示を始めるくらいの情熱が要求されるかもしれない。生前にまで遡って、何かを詳細に書き起こすような技術なり情熱なりを僕は持ち合わせていないし、どうせ、来年になったら、また新しい展示がはじまって、今回の展示の記憶なんて、完全に上書きされてしまうだろう。

こんな無駄話で字数をいたずらに埋めるくらいなら、はやく本題に入ればいいと思う。心から。

↓ 本題

さて、かなりの不安要素を残したまま冬休みに入ってしまって、年末年始は悶々としながら実家を転々としていたわけだけど、1月に入って、早朝(始発あるいは準始発)から夜遅くまで、戦場の展示物のためだけに、自分の持っている思考と身体の全てのリソースを捧げるようになって、学生とのコミュニケーションも、もう、うざいくらいに密になって(普段そんなに密じゃないから許されると思う)、それで少しずつ事態が好転してきた。1月中旬あたりで、「今年もいけるぞ」って確信した。いや、ひょっとして画期的にいいのではなんて思ってしまったり。

このツイートなんかは、展示前の、攻撃的なモードがよくでている。でも、今回も前回も、体感的に、予告編を見たうえで判断して来てくれた人が多かったような気がする。予告編すごく大事。

全体的な話として、二日間通して多くのお客さんに恵まれたのは嬉しかった。何より、(とりわけ日曜日がそうだったんだけど)この展示を、じっくり体験しようという明確な目的を持って来てくれている人がとても多かった。これはオフレコかもしれないけど、展示後に、ビッカフェの堀江さんと話していた時に、「今回は、お客さんの質がすごくよかった」と言ってくれたのが嬉しかったし、その言葉には、実際、すごくリアリティーがあった。来てくれた人(作家とか大学関係者が多いわけなんだけど、ごくごく普通の人も居る。でも話していると、ごくごく普通ではないことがわかる)は、みんな、どこかで、何かしら、自分の主観世界の中に眠っている幽霊に対して半ば自覚的な人たちばかりで、そういう人は、みんな独特の雰囲気を持っている。それで自然と話も盛り上がる。だから、イベントとしての「からだは戦場だよ」が醸している独特な雰囲気であったり世間との距離感みたいなものは、ビッカフェという場所と、そこに集まるお客さんによって、かなりの程度、色付けられている。展示物は、そうした磁場の中にあって、自動的に複数的な文脈を獲得していく。3年目にして、こうした共犯的な関係は、決定的なものとなったと思う。

展示の様子については、ぜひとも記録映像を見てほしい。僕と四人の学生が手持ちのカメラで撮影した、それ自体は断片的な瞬間をつなぎ合わせた、粗い粗い映像の集積ではあるけれど、全編を通して見てもらえれば、サイエンスとして捉えようとしても、アートとして捉えようとしても収まりの悪い、小鷹研の展示に特有な雰囲気が十二分に露出していることがわかると思う。


以下で、今回出展した5つの制作物について、備忘も兼ねて、とりわけ制作に至る背景的なところを中心に書き連ねていこうと思う。

「ポールを引っ張り合う、腕が伸びる (仮)」
森光洋

去年やった「アンダーグラウンド・ダイバー」(曽我部さん)の別バージョンであるとともに、自重変化を身体イメージの長さと連動させるシリーズの第二弾。曽我部バージョンにおける「棒にぶら下がる」というアクションを、今回は、実験者を一人介在させて「棒を引っ張り合う」というインタラクションに置き換えた。こういう環境をつくることで、自重変化が、なんらかの形で筋肉の負荷と相関するという点が重要。この種のアプローチ(1:筋肉の負荷量のバロメータとして自重変化に着目すること、2:自重変化と身体イメージのスケールを関連づけること)は、今のところ、小鷹研独自のアイデアだと考えている。自重は、Wii Boardで取得するので、体験者は何も装着する必要がないという点も重要。

今回のインタラクションでは、体験者の側は、ポールを握ったまま、腕をピンと伸ばした状態で、体重を後ろに預けているので(つまり、実験者の側が、ポールを介して、体験者の体重を支えているという関係)、実際のところ、「引っ張り合う」というような能動的な駆け引きが行われているわけではない。だから体験者側のインタラクション感としては、去年の曽我部版「ぶらさがり」と本質的に変わっていなくて、あくまで、受動的な関わり方をしている。それで、なんとなく、この種の受動的に「状況に投げ出されている感」こそが、アブノーマルな身体イメージを自己に帰属できるかどうかを左右する、重要なファクターとなっているという気がしている(この点は、sense of agencyに関する一般的な言説とは逆かもしれない。僕自身は、sense of agencyの生起条件として、一般に「主体性」の関与が強調されすぎているように感じて、その点には違和感を感じている)。

身体の一部が変形していく有様を目の前にしたとき、その変形を促している主体が自己の側にあるのか、外部(他者の側)にあるのか。普段経験したことのないようなイメージの変換を受け入れるためには、イメージの変異自体は自己に帰属させつつも、エージェントは他者に帰属させる、という戦略を、認知はいろんなところでとっているのではないか統合失調性における主体のあり方なんかを絡めていくと、より面白い議論に発展できるかもしれない。

「液体の屈折特性を利用した身体像の光学誘導型グリッチ」
宮川風花

グリッチという手法(というかコンセプト)は、音楽やビジュアルイメージの領域で散々やられてきたことで、それ自体で何か新しいというのは一切ないと思うけれど、宮川さんの卒論の中では、従来のアプローチとの違いとして、「コンピュータを使わない光学誘導型のグリッチ」であること、そして、「グリッチされる対象が鑑賞者自身」という点が強調されている。

前者の「コンピュータを使わない」という点については、去年の秋に「おとなのからだを不安にさせる13のワーク」というワークショップを企画した頃に考えていたことと地続きのところにあって、HMDやらディスプレイやらスクリーンやら、というのは、舞台セットそのものがいかにも非日常的過ぎて、その中でどれほどリアルな表現が志向されていようとも、電源を切ると(HMDを外すと)同時に夢から覚めてしまうようなところがある。だから、日常的な文脈の価値は、メディア空間への依存度が高まれば高まるほどにむしろ高騰していく。一方で、そういった反面教師的なかたちで日常に目を向けていく過程で、コンピュータ的なリアリティーが日常の側に逆輸入されていく、ということが往々にしてある。メディアの教養を内面化してしまった者にとって、「日常が日常として自立している風景」へのアクセス権は完全に失われている。わざわざ日常に属するコンポーネントを使って身体像をグリッチしようとする、「ポスト・グリッチ」的な発想こそが、そうした抜き差しならないメディアと日常空間の関係の一つの顕れである。

いわゆる、「グリッチアート」的なるものと違って、今回の展示では、グリッチが体験者の主観的な身体像そのものに直接的に介入している、という点は強調しても強調しすぎることがない。マネキンの顔にグリッチをかけると、マネキンの顔はバラバラに分離する。しかし、その分離の様相は、極めて安定している。一方で、自分の顔にグリッチをかけたものを鏡を通して見ると、自分の顔のバラバラ加減、そのものが、また時間的にバラバラに移行してしまうので(おそらくは認知過程において、焦点がどこにも安定的に収束できないのだと思う)、いつまで経っても空間的に安定したバラバラの像を結ばない。何よりも、この主観的な像を形成するアルゴリズムは、各人に固有の認知過程の中に埋め込まれているので、決して、カメラによって捕捉することができない。この2種類(マネキン/自分の顔)の鑑賞体験を比較することは、ちょうど他人が自分を観察するようなかたちで、自分が自分自身を観察しようとする際につきまとう原理的な困難を考えるうえで、とてもいい教材となっているように思う。

「動くラマチャンドランミラーボックス(シリーズ)」
石原由貴

これは、石原さんが現在取り組んでいる博士研究の、ちょっとした息抜きみたいな位置付けで、ウゴラマから派生した体験装置で3点を出展した。(石原さん着想の)足をぶらんぶらんさせるというのは、シンプルだけど、面白いアイデアだったと思う。まさに「たったこんだけのことで!!」(@温度さん)、という感じ。

「FIBER FINGERS」
深井剛

まずは、この作品の背景から。

昨年の夏に、新宿のICC(Inter Comunication Center)の展示『メディア・コンシャス』(WEB)の中で、エキソニモの「BODY PAINT」(WEB)を見て、超絶宇宙級の衝撃を受けて、それがきっかけでポスト・インターネットというメディアアート発のムーブメントに注目するようになった。ざっくりな印象で言うと、ディスプレイの中に仮住まい的に構成されたメディア空間(記録されたもの、編集されたものによって構成される空間)と、その外部で、より長いスパンで自立しているようにみえる物理空間との関係を、単純な対立関係としてではなく、相互に依存し合うシステム論的(生態系といってもよい)な視座の上で捉え直そうとしている、という感じだろうか。彼らは、(ディスプレイが現実に/現実がディスプレイに)「溶け合う」というような表現を使ったりする。工学者からは絶対に発想されない、非常に文学的な言葉だな、と思ったりするわけだけど、実際にエキソニモの作品を見たりすると、この「溶け合う」という表現が、(ある場合では)事態をかなり正確に名指したものであるということがわかる。おそらく、美術というのは、多かれ少なかれ、現実と虚構との(本来)抜き差しならない関係を、それぞれの仕方で扱おうとするものであるからして、ポスト・インターネットが、美術の歴史のなかで、何か特別に新しい視座を提供しているというよりは、そういった美術の伝統を、新しい道具を使って、正しく継承しているという言い方が正確なのかもしれない。そのうえで、僕がこの一連のムーブメントに関心を持つのは、ポスト・インターネットが、美術が伝統的に題材にしてきたであろう諸問題を、非常にわかりやすいかたちで鑑賞者に提示してくれているようなところがあって、結果的に、美術という難解な装置の、優れたメタファーとして機能している(その意味では、美術であると同時にメタ美術でもあるような)、と、少なくとも僕にとってはそんな魅力がある。

この「わかりやすい」という印象は、作品の受容において、体感レベルの手応えが果たす役割が大きくなっていること、とも関係している。つまり、(美術のコンテクストを知っていようが知っていまいが発動するような)物理空間とディスプレイ内空間との区別が失効するような錯覚が現に生じること、そのことそのものが作品の価値の重要な側面を構成してしまうこと。これは、ある意味では、美術が自然科学の言語で記述されるような事態を指していることになるんだけど、逆から見れば、自然科学(および工学)が、従来であれば美術にしか処理できなかった主観世界の諸相にメスを入れるようになってきたという側面もあるわけで、つまり、科学の方から美術に歩み寄っているという見方もできる。

さて、この深井くんの「FIBER FINGERS」には、美術発のポスト・インターネットのアイデアと、自然科学発の「からだの錯覚」のアイデアがふんだんに投入されているようなところがあって、小鷹研としてはかなり新しい試みだったんだけど、それらが相互に有機的に絡み合うところまで持っていけたかというと、「からだの錯覚」の部分の設計の甘さもあり、あと一ヶ月くらい時間が欲しかった、というのが正直な気持ち。こういう瞬間瞬間を捉えた写真(↓)はすごく気に入っているんだけど。

この作品では、ラティスの真ん中が長方形にくり抜かれていて、そこに黒い布が貼られている。そのうえで、プロジェクターを使って、そのくり抜かれた領域に、外部との切れ目がないように、あらためてラティスのパターンが投影されている。プロジェクションマッピングにお決まりの、「部屋を真暗にして投影面を際立たせる」というようなことはしていない。あくまで、日常的な光環境のなかに、そっとプロジェクションを忍ばせる。その結果、(これはこの作品にとって決定的に重要なことなんだけど)展示物をぱっと見て、真ん中の部分がプロジェクターで投影されたものであることに気づく人はほとんどいない。ここでは、「投影面」と「投影されたもの」との区別が、少なくてもある質感のレベルにおいて、失効してしまっているのだ。実際の現場では、布にあらかじめラティスのパターンがプリントされているようにみえるというのが一般的な感じ方だと思う。

このプロジェクトにとっては、プロジェクションマッピングを使った表現特有の「かっこいい」演出に対抗するようなメタ表現を模索することが決定的に重要だった。実世界を舞台にするといいながら、自然光はノイズとみなされ、投影面および投影面近傍のオブジェクトの質感(テクスチャ、色感、、)は極力排除される。そういった周囲の涙ぐましいお膳立てのうえで、いかにも現実と乖離したおあつらえ向きのビジュアルが投影される。そのような、空間が本来有している豊潤な資源を黙らせることによって成立する、いかにも全能的なアプローチの急所を狙って、くさびを打ち込むこと。プロジェクションマッピングという表現形態の内側に踏みとどまりながら、プロジェクションマッピング的な表現の魅惑(≒ 呪縛)から距離をとり、あわよくば、その急所を突いて、鮮やかな転覆を図ること。そのようなカウンター表現の基本原理として、「自然光をノイズとみなす」という暗黙の前提を解除するという条件設定は、シンプルでありながら極めて鋭利な切れ味を持っている。来年も、この原理から出発して、新しいメタ表現を模索したいと思う。

「RECURSIVE FUNCTION SPACE」

前年度に信田くんと作った「I am a volleyball tossed by my hands」(映像)から連なる「視点変換シリーズ」の第二弾。「外部から自分を見る」ということにすごく興味があって、ただ認知科学的な観点からすると、鏡やらモニタを通して見る自分に対するリアリティーの”軋み”は、rubber hand illusionでターゲットとなっているような深いレベル(身体所有感)の変調作用からは程遠い。自分自身(のようなもの)と対面状況となったときに、自分がここにいると同時に、そちら側にもいるというような同時性にかかわるリアリティーを、どのような尺度で計量するのか、その方法論については、実は、実験科学の分野でも未だ十分に確立されているとはいえない。そもそも、ナイーブに「外部から自分を見たときにそれが自分だと感じるようなリアリティー」と表現されるようなものが、単に、鏡に映っているものが自分であることを認識することと、どう違うのか。こういった基本的なことについても、僕の知る限り、学術的なレベルで十分に議論されているとはいえないと思う。

僕の考えでは、この種のリアリティーを、「鏡の手前にいる本当の自分」と「鏡の側にある虚像」というような二項関係として捉えるのは、問題を極めて矮小化しているような気がしてならない。というのは、鏡やらモニタを通して自分を見ているような状況において、「自分がこちら側にいる」という手応えは決して崩れることがない。鏡を見るという行為によって、「いま・ここ・わたし」の基盤は、いささかも動揺しないばかりか、むしろ、「自分が現実にここに存在する」ということに対する現状の揺るぎなさをより強化してしまうようなところがあるその基盤は、むしろ鏡に自分が映らない場合にこそ、致命的なダメージを被るだろう)。こういった二項関係においては、虚像が、現実の身体に絶対的に従属してしまっているのだ。

「自分がここにいると同時に、虚像の側にもあるというような同時性」にかかわる感覚。この深遠なるリアリティーを解く鍵は、やはり、主客の方向性が極めて錯綜する幽体離脱にこそ求められるべきである。そのような状況では、幽体する視点だけを借りて、オリジナルの自分の肉体を眺める経験(客体→主体)と、肉体は相変わらず視点の側にありつつも、モニタ上の自分を眺めるような経験(主体→客体)とが、ないまぜに共存するような事態が発生している(にちがいない)。こういう事態に際してはじめて、自分の<自分性>を深いところで支えている何かしらにメスが入り、その副作用として、あるいはその補償として「不安」が生じる。

さて、RFS(Recursive Function Space)については、語るべき周辺的事項がたくさんありすぎて、その割には、前置きが長くなりすぎてしまったので、どうしたものか。なにを語るべきか、あるいは何も語らないべきなのか。

RFSを着想する前段で考えていたことについて、別の視点からもう少し書いてみたい。

先述した、昨夏に訪れたICCで行われた展示「メディア・コンシャス」の出品作家のうちの一人、谷口暁彦氏の「思い過ごすものたち」の記録映像を眺めていたときに、展示空間そのものが、コンピュータ上で編集された3DCGの一つのシーンにみえてしまうような、妙な感覚に襲われた。現実の空間を編集空間として、あたかもソフトウェアを操作するような按配で、種々のオブジェクトを三次元空間の特定の位置に配置していくことで展示空間が組み立てられていく。それらのオブジェクト(=コンポーネント)の間で、お互いの変数を参照しつつも自己の状態を更新するような相互作用を設定することで、展示空間に時間が流れ始める。そのなかで、ある特定の条件を満たすような更新式を定義すると、展示空間のなかで、ある特異的な「効果」が発生する。以上のような描写は、展示空間の風景を、努めて「形式的」な記述へと展開しようとするときの、一つの「切り取り方」であるといえよう。

「思い過ごすものたち」の展示空間では、iPadが決定的に重要なコンポーネントとして機能しており、iPadに映されたCG表現の質感が、iPadの外部に出て、展示空間全体を侵食していくようなところがある。編集空間A(展示空間)の内部に、別の編集空間B(iPad)がコンポーネントとして配置され、そのうえで、編集空間Bが編集空間Aに(or/and AがBに)擬態するような何かしらのインタラクションを埋め込むことによって、編集空間同士の階層性が無化されていく。おそらくは、形式的に記述され得る、数学的な効果として。

例えば、力学系が、時間発展式の内部変数を少しずつ変えていくことで、周期性を示したり、その周期が増減したり、カオスを示したり、一点に収束していったり、、といったかたちでシステムの挙動が分岐していくのを形式的に整理できるのとちょうど同じような按配で、『思い過ごすものたち』の展示空間で起きていたであろう「現実が括弧付きの現実に後退するような錯覚」の生起条件を定式化できないだろうか。極めて形式的な言語体系である論理学において、自己言及性の侵入の深さを変えていくことで、システムの完全性が維持されたり損なわれたり(パラドックスを回避したり、できなかったり)という分岐のあり方が、やはり厳密に定式化できるのと同じように、人間の主観において現実と虚構の境界に対する認識が安定していたり不安定になったり、というあたりの分岐点の様相を、展示空間内の複数のコンポーネント間の再帰的なインタラクションとして、形式的に記述できないだろうか。

自己言及性の問題は、当然ながら認知の問題(ホムンクルスの無限後退)とも強く絡んでいる。したがって、美術の領域で、しかし徹底的に形式的なやり方で、「展示する空間」と「展示される空間」の階層性を無化するような表現を志向することは、結果的に、「イメージする自分」と「イメージされた自分」とが入れ子的に構成されてしまう宿命を負った、意識を持った僕たちが、普段どうやって離人症的な不安を回避できているのか、あるいは、どのような条件で明晰夢が発生するのか、といった認知システムに特有な問題を解くための手がかりを与えてくる可能性がある。と、まぁ、この話は、結構な広がりを持っているはずなのだ。

この辺の話は、部分的に、展示初日の出前講義でもやった。

以下が、その時、話題に出した作品たち。

  • the truman show
  • ジャルジャル『一人漫才』 映像 『変な奴』 映像
  • 世にも奇妙な物語 『プリズナー』 映像
  • エキソニモ『BODY PAINT』 WEB
  • 谷口暁彦『思い過ごすものたち』 映像
  • 永田康祐『The way it is』映像

とりわけ、ちょうどRFSを作っている最中の年末に、トーキョーワンダーサイトまで見に行った、永田康祐さんの展示『Therapist』は、総体として、「記録されたもの」の蘇生をめぐって、記録メディアと物理世界のオブジェクトを等価なコンポーネントとしてとらえながら、空間全体を形式的に記述しようとする強い意志が感じられて、とても印象的であったと同時に、すごく刺激を受けてきた。

いきなり話が飛ぶようだけど、出前講義の中心的な話題として、ジャルジャルのメタ漫才の話をした。ツッコミを「現実の規範を代弁するプレイヤー」として、ボケを「こうであったかもしれない現実を提示する虚構の側のプレイヤー」であるとみなすと、漫才もまた、現実と虚構の間の抜き差しならぬ関係を、多様なかたちで記述できる可能性を持っていることがわかるし、やり方によっては、硬直した現実に対してソリッドに風穴を開けることも可能なはずだ。しかし、ほとんどの漫才なりコントは、「鏡を見て、自分がここにいることを安心する」のと同じように、ただ単に虚構を茶化しつつ現状追認で終わってしまうことが多いため、知的な領域で議論される機会になかなか恵まれていないように思う。

この点で、ジャルジャルの漫才なりコントの構造が有しているメタ構造的な特異性は際立っている。例えば、このコントとか。

僕は、かなり初期からジャルジャルの動向を追い続けているのだけれど、最近になって、ようやく、彼らの特異性を言葉にできるかもしれないという手応えをつかみつつある。今回は、RFSを理解するための近道になればといいと思って、思い切って、レクチャーの中の中心的な教材としてとりあげてみたし、結構、反応もよかったと思う。実は、RFSは、ジャルジャルの最新のネタである「一人漫才」におけるボケとツッコミの関係を、「イメージする自己」と「イメージされる自己」との関係に置き換えて、仮想空間の中で再構成したもの、というような切り取り方も可能だったりすので、その辺の関連性を、図式的に説明していったつもり。この(漫才と仮想世界を関連付けて説明する)方法は、僕自身もやっててすごく楽しかったので、今後、大学の授業の中で積極的に取り入れていきたいと思っている。

こんな具合に、自分が面白いと思えるものについて、ジャンルとか関係なく、それらが基底において何を共有しているのかについて問い続けること。それによって、たまに、思ってもみないところに補助線が引かれて、見たことのない風景が立ち上がることがある。「面白い!」のあとに「なぜ面白いのか」をしつこく問い続けることが、僕にとってはすごく大事なこと。

まだ全然つづきですが、さすがに10000字を目前に控えているので(赤を入れていたら10000字超過しました)、筆を置くことにします。展示のまとめというよりは、2016年度に小鷹研が思考していたことを、清算するいい機会となりました。(小鷹)

卒業おめでとう〜(2016年度卒業生 :深井剛・宮川風花、修了生:森光洋)

深井くんは、制作で不安になったり悩んだりすると、突然、本筋と関係のない、しかも巨大なスケールの作業を始めてしまい、それで週末とかをまるごと潰しちゃったりするんだけど、その間、とにかく手を動かしていることで安心を得ようとする。僕は、これまで、深井くんのそういう姿を面白可笑しく見てきたけど、でも、新しい意味なるものは、無意味な日常からふっと湧いてくるものであることをかんがみれば、「とりあえず身体を動かす」という深井くんの戦略は、それなりに根拠のあるものだったのかもしれない。。深井くんのご両親は、研究室のイベントに数回、顔を出してくれた。深井くんは、そんな両親を迷惑そうに見るわけでもなく、べったりするわけでもなく、すごく自然な距離感で迎えている。そんな風に、両親とうまく付き合っている大学生を僕は見たことがない。深井くんは、きっといいお父さんになるんだろう。

宮川さんは、研究室に来るまでは全く気づけなかった独特の魅力があって、それで研究テーマ(ウォーターグリッチ)も、彼女のキャラが活きるように、自然と独特な方向性を持つようになっていったんだと思う。展示が終わって、水は乾燥し、空のアクリルだけが残り、グリッチは魔力を失う。そして、このプロジェクトも今後、誰にも引き継がれることなく終わっていくのかもしれない。でも、それを補って余りあるビジュアルとしてのインパクトがあって、いくつかの写真・映像は、今後の小鷹研のアーカイブの中でも印象的に、使われていくことだと思う。あらためて、宮川さん、、普段はそんなに自信がある感じでもないのに、人前だとかカメラの前だとかで、瞬時にモードが変わって、輝くタイプ。小動物が危険を察知したように、ピンと背筋が伸びるのがステキ。社会人になっても、人前で何か演技をするようなサイドワークを続けてほしいな、って思う。

森くん(↑芸術工学会奨励賞を受賞)とは、もう3年以上の付き合いか。。「からだは戦場だよ」の黎明期から、小鷹研をともに歩いてきた(いい意味で)変人。。少なくてもこれから一年は、まだ付き合いが続きそうなので。あらためて、しんみりしたことを語るのを拒否させるような何かがあるんだよな、森くんは。

ということで、3人まとめて、おめでとう〜。またどこかで会いましょう。

発表|インタラクション2017

東京・明治大学中野キャンパスにて行われたインタラクション2017の最終日(2017.3.4)に参加し、 小鷹研究室の博士課程在籍中の石原由貴が、装置『動くラマチャンドランミラーボックス』 に関係する心理実験の内容について、口頭発表とインタラクティブ発表を行いました。
 
今回は、インタラクション参加5年目にして、小鷹研としては、口頭発表投稿への初めてのチャレンジとなりました。分野外のトピックでありながらも、査読者の手厚いサポートのもとなんとか採択をいただいています(採択率は43%だそうです)。
 
 
口頭発表は、ぼくも経験したことのないような広い会場で、事前の発表練習も微妙だったので、石原さん、大丈夫かなぁ〜、とドキドキしながら見守っていましたが、さすがですね。ちゃんと本番に合わせて仕上げてきました。あの場所で、あれだけ堂々と落ち着いて喋れていたのはすごいと思います。とはいえ、MVFになじみのない方々にとっては内容が把握しづらい点があったのも事実で、今後のいい課題となりました。
 
 
午後のインタラクティブ発表は、僕と、石原さんと、3年生の室田さんが説明員として参加して、装置も3台持っていくかたちで、盤石な態勢でのぞんだのですが、それでも、2時間以上ずっ〜と人の波が止まず、100人近い体験者の生の声を聞くことができました。あらためてインタラクションに参加することの意義を再確認したところです。
 
 
 
少なくない人が、装置のカラクリを説明した後であっても、鏡面背後の手が(錯覚としてではなく)「実際に物理的に」動いていると強く信じており、全く動いていない鏡面背後の手を実際に確認してもらって、驚いているのを見るのは面白かったです。ある人は、『自分が鏡を見ている時だけ、鏡面背後の手を秘密裏に動かしているのでは』と疑っていました。。
 
100人近い体験者のなかで、明確に錯覚の影響を受けない人は10人に満たない数でしたので、<動くラマチャンドランミラーボックス>は、小鷹研史上でも最大の錯覚装置ということになります。一方で、これですら感じない人の脳内に何が眠っているのか、ということを探りたいという気持ちは、これまで以上に高まっているところです。
 

論文を仕上げていく過程で、この研究が、従来のMVF(Mirror Visual Feedback)では掘り起こせなかった、かなり刺激的なポイントをついている、ということについて再確認しました。とりわけ、固有感覚(手の位置感覚)と視覚(によって捏造される固有感覚)の時間微分(=移動速度)がお互い矛盾している時に、どこに均衡点があるか、という切り口は、今後の錯覚研究においても、とても一般性を持つ論点となりうると思います。今回の実験の結果をざっくりいうと、現実ベクトルを覆すためには、4倍の量の(逆向きの)虚構ベクトルが必要である、ということです。

石原さん、この研究、すごく面白いんです。もう国内での発表は十分やったので、はやいところ国際ジャーナルへの準備を〜!!
 


石原由貴・小鷹研理:Mirror Visual Feedbackを活用した 鏡の移動による上肢の移動感覚の変調, 第21回情報処理学会シンポジウム・インタラクション2017, 明治大学, 2017.3.4(口頭発表) PDF

 

告知:からだは戦場だよ2017 とりかえしのつかないあそび

 

予告

 

Invitation

三年目のからだは戦場だよ。
テーマは「とりかえしのつかないあそび」です。

例えば、「天狗」(注:鼻がいたずらに長い点を除けば、人間であるとみなすことが許されるようなある種のカテゴリー)であるとはどういうことかを知るために、天狗に関する歴史的文献をまじまじと読むのでもなく、天狗のイラストを粛々とトレースするのでもなく、あるいは誂え向きの天狗のお面をふかぶかと被るのでもなく、、ダイレクトに天狗に変身できるのであれば、それが一番てっとりばやい。

絵本の中のお話なんかだと、そうした変身のカードは(たいていは無垢なこどもによって)何の躊躇もなく行使されるわけですが、しかし、もし現実にそんな機会(というか危機)が訪れようものならば、どうだろう。たとえ、それが(稀にいるかどうかもわからない)天狗への変身願望に取り憑かれた大人の身に起こったのだとしても、現実的な観点からすると、むしろ変身の後始末にこそ目を向けるべきであり、つまるところ、仮に変身できたとしてその後に滞りなく元の姿に戻ることができるのか否かについての十分な確認を怠るべきではない。ここでは、絵本的に約束された楽観的な結末を期待するのは単なる甘えとみなされるのです。

ある男が、『うらしま』と題された、天狗への変態のための呪術を扱う古文書を偶然発見するところから現実の物語は始まります。その男は鼻の低いことにコンプレックスを持っていたのかもしれない。その書に記されていた変身のための手順を忠実に実行すると、鼻はにょきにょきと立派に成長し、やがてその男は天狗の世界で新たな仲間として迎え入れられます。それから数ヶ月もの間、男天狗との友情やら女天狗とのロマンスなどのお約束に巻き込まれながらも、しかし(というか、やはりというか、今さらというか)突然に彼方に残してきた家族のことを思い出さずにはおれなくなり、強烈な望郷の念にかられてしまう。天狗との別れを惜しみ惜しまれつつも、やはり古文書の末尾にひっそりと記されていた秘伝の呪文を唱えることで、その男は無事にもとの鼻を取り戻し、家族に再び温かく迎え入れられました(とさ)。めでたしめでたし。

しかし、物語にはつづきがあります(現実の物語の中に挿入される終わりの切断面(<とさ>)はいつだって留保つきなのです)。確かに、顔の造形はもとに戻った。周囲の人間もこれまでと何一つ変わらないかたちで接してくれている。とりわけ、写真で判別するかぎりにおいて鼻の造形は変身前と何一つ変わらない。しかし本当のことを言うと何かが違う。否、それどころの話ではない。「本当のこと」なんて勿体ぶった表現を持ち出すまでもないし、「何かが違う」なんていう穏当な表現では全く足りない。事態はむしろ全く逆に振り切れているのだから。『写真で判別するかぎりにおいて鼻の造形は変身前と何一つ変わらないという一点を除いたありとあらゆる意味で鼻は依然として不恰好に長いままなのだから

彼は、その長い鼻を抱えたまま、あるいは、長い鼻を持っているという認識を孤独に抱えたまま、そして、あの古文書が『うらしま』と題されていたことの意味を時折かみしめながら、その後の半生を、(鼻の問題を除けば)特に大きな障害もなく過ごしました(とさ)。

閑話休題

大きなスクリーンがあれば大多数が一気に経験できる錯視のようなものと違って、<からだ>の錯覚は、各人の身体のまわりの、ごくごくパーソナルな空間の中で繰り広げられる相互作用の中からしか生まれません。ある人の<からだ>に直に響くような錯覚を届けるためには、その人のすぐそばまで、息遣いが聞こえてくるところまでぐっと寄っていかないといけない。あるいは、誰かが(どういう動機かは不明だけれど)いつもと違う<からだ>を手に入れようとするのであれば、その人自身が、その「からだのようなもの」のすぐ近くにまで出向いて、自分が占有している物理空間を生贄として差し出さなければならない。そうして、<からだ>の錯覚は、新しい容れ物とひきかえに「ひょっとすると、自分のもともとの身体を永久に失ってしまうかもしれない」という危険と隣り合わせの闘争の場となります。それは、人生で何度目かの幽体離脱に遭遇した人が、久しぶりに手に入れた時限付きの自由で胸を震わせる一方で、「今回こそは二度と自分の肉体に戻ってこれなくなるかもしれない」、そんな不安と闘うのと似ています。

小鷹研究室は、こうした(あらかじめ各自の認知機能にビルトインされた)呪術の仕様を科学的に探求する一方で、呪術の使い手としての作法を身につけることにも多大なる関心を寄せています。「からだは戦場だよ」は、その公開実験の場と考えています。控えめに言っても、こうした「とりかえしのつかない遊び」を(しかし)遊びとして、まとまったかたちで体験できる場所というのは、全国的にも、ビッカフェの「からだは戦場だよ」だけと思います。今年も、HMD(ヘッドマウントディスプレイ)・プロジェクションマッピングといった現代的なVR(バーチャル・リアリティ)関連のテクノロージー勢に対して、鏡・水という何の変哲もない自然物が思ってもみないかたちで応酬するという小鷹研らしいカオスな様相を呈しています。1年のうちのたった2日間です。ぜひ、生の反応を聞かせてください。お待ちしています。<(_ _)>

(こだか)

 

展示
からだは戦場だよ2017 とりかえしのつかない遊び
|会期| 2017年1月28日(土)12時 – 19時30分
2017年1月29日(日)12時 – 17時
|場所| やながせ倉庫・ビッカフェ
岐阜県岐阜市弥生町10 やながせ倉庫202
googlemap
|料金| ビッカフェにてワンオーダーお願いします。
関連イベント
出前講義 「虚構(遊び)が現実に転じるとき」(小鷹研理)
|日時| 2017年1月28日(土)17時 – 18時30分
(いつもより時間が早いです。お間違えなく)
|料金| 500円+ワンドリンク
出品者

石原由貴(博士後期課程)、森光洋(修士2年)、深井剛、宮川風花(学部4年)
小鷹研理(准教授)

企画

ビッカフェ(やながせ倉庫) FACEBOOK
小鷹研究室(名古屋市立大学芸術工学部情報環境デザイン学科) WEB

イラスト協力

もこうぼう WEB

一部助成

科学研究費「モーフィングに基づく非相似的な身体像の誘発に関する研究」WEB

パネラー|ICSAF/日本音楽学会中部支部合同シンポジウム

2016年12月10日、以下のシンポジウムに小鷹が参加しました。<芸術と工学の融合>といいつつも、学位審査の現場では、芸術が工学の「最強」フォーマットに一方的に合わせざるを得ない、そんな現状について自分の思うところを述べました。


「大学・大学院教育における研究と作品創作」
パネラー / 小鷹 研理(名古屋市立大学),塙 大(名古屋市立大学)
司会 / 水野 みか子(名古屋市立大学)

フライヤー