2017.5.10発売の雑誌・早稲田文学に掲載されている古谷利裕氏(画家・評論家)による論考 『「わたし・小説・フィクション /『ビリジアン』といくつかの「わたし」たち」』のなかで、 先日の「からだは戦場だよ2017」で発表した「Recursive Function Space」 (小鷹研理・森光洋)を取り上げていただいています。
「早稲田文学」最新号
◆寄稿 古谷利裕「わたし・小説・フィクション 『ビリジアン』と、いくつかの「わたし」たち」
柴崎友香の小説『ビリジアン』を、津田道子、谷口暁彦、小鷹研理・森光洋による3つの作品=装置とともに分析することで、わたしのフィクション性をめぐる新たな視野が開かれる。— 早稲田文学 (@wasedabungaku) May 1, 2017
この論考では、柴崎友香の小説『ビリジアン』の主人公である山田解の、小説全体における時系列的な配置のあり方が主題的に論じられるのですが、山田解であるところの<わたし>の様相を詳細に読み解くうえでの「入り口」として、文学とは異なる形式を持つ領域で発表された3つの作品・装置の体験における<わたし>の変異が考察されています。このうちの2つが、ICCで昨年、一年間に渡って行われた展示『メディア・コンシャス』のなかで出品されていた、津田道子さんの「あなたは、翌日私に会いにそこに戻ってくるでしょう。」、谷口暁彦さん「私のようなもの/見ることについて」。そして、最後の一つが、小鷹研究室の「Recursive Function Space」(以下、RFS)ということになります。
率直に言って、例年岐阜で開催している研究室展示で、こぢんまりと公開しただけの(しかも学会発表すらしていない)RFSが、他の、実績のある作家の素晴らしい作品(僕自身、どちらの作品も現場で体験して、ひどく感銘を受けていました)と並べて取り上げてられていることには、大きな戸惑いを覚えると同時に、いろんな偶然(と少しばかりの必然)が重なって古谷さんのアンテナに引っかかって、そしてこうして論考の一部を成しているという現実に際して、(やはり率直に言って)とても幸運だったと思っています。
古谷さん自身は、RFSを体験されておらず(機会があれば、ぜひ僕からお誘いできればと思ってます)、執筆にあたっては、僕が3月下旬に公開した(「からだは戦場だよ2017」の記録を基に作成した)RFSのチュートリアル・ムービー、および解説ページを参考にしていただいたようです。論考には、解説ページの引用(注2)がありますが、関心のある方は、こちらから直接ご覧ください。
内容 | LINK | |
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RFSのステートメント | WEB | |
TUTORIAL MOVIE | YOUTUBE |
ここでは、論考の中身については詳しく触れませんが、論考の一つの論点である、「<わたし>が<ここ>にいること(に関わる感覚)」が、「<わたし>がこの<わたし>であること(に関わる感覚)」と分かち難く結びついてしまっている、このいわば「自意識にとっての公理的な基底」に対してフィクションがどう介入するか、という問題意識は、「sense of self」という概念が徐々に市民権を得つつある(つまり、「sense of self」を操作可能な一つの変数とみなそうとする)実験科学の分野においても、とてもアクチュアルなものであるといえます。(一方で)めぼしい”物証”が期待できないであろう、こうした難しい課題を捌いていくうえで、そもそもこれまで、人類が芸術を(<わたし>がフィクションを)どのように受容してきたか(受容しているか)を参照項とすることは、重要な足がかりとなるはずです。小説世界における<わたし>が、(ちょうど『ビリジアン』で生じていたように)物理世界の時空とは異なる原理で、柔軟に変形し、不連続的に転換し、入れ替わり、、そのなかに読者である<わたし>が参加し、ときに<わたし>と<わたし>が共鳴する(そして、読者である<わたし>の組成が変調し、再編成されていく)。ここで生じているであろう、<わたし>と<わたし>が関係し合うパターンを、言語的あるいは数学的に掬い出し、その記述の一般性の強度を、異なるメディアにおいて成立している同型的なパターンを掬い出していくことによって、保証していこうとする試み。
古谷さんは、2017年4月27日の偽日記で、今回の論考について以下のように書いています。
つまり、フィクションについて、「わたし」について、書きました。メディウム・スペシフィック的ではないフォーマリズムの実践の一つであるつもりです。
僕自身は、普段、認知心理学とか脳科学に分類されるだろう「からだの錯覚」を専門的に研究していますが、ここのところ、意識的に、その外側に出て行って、「どのような虚構(の呈示のあり方)が、現実の基盤を揺るがすのか」という問題意識で、漫才、美術、文学、演劇、、といった種々のメディアで、そのメディアのコードを自己言及的に侵食していくような作用を持つ作品に注目しています。(願わくば)そうしたアプローチに特有のパターンを統一的な共通言語で記述できればいいと思っている(僕自身は、このような視点を「メディア解剖学」と呼びたい)。その努力は、今後、「からだの錯覚」の研究へと戻っていって、そのような回り道から、大きなブレイクスルーが果たせるんじゃないか、と僅かながらの期待を抱きながら。その意味で、今回の古谷さんの水平的・横断的な実践には、とても共感できるところがあります。
最後に。古谷さんの論考だけでなく、今回の早稲田文学の特集「作られゆく現実の先で ポスト真実/人工知能時代のフィクションをめぐって」、むちゃくちゃ面白いです。僕自身は、最近の(いや、最近とか関係ないか)政治的状況には非常に疎いわけですが、「ポスト真実」という概念がリアリティーを持ってしまっている今日にあっては、「現実でないもの」を単に「虚構」と一括りにするのでなく、どのようなイマジネーションが「現実」と幸福な関係を結ぶことができるのか、という問題意識が浮上するのはとてもよく理解できる(久保昭博「ポスト・トルゥースあるいは現代フィクションの条件」)。フィクションとしか思えない宗教的なリアリティーの中に住まう民族が、しかし、全体主義的な方向へと瓦解していくことなく、豊かな人間関係を築きあげているように思えること、こうした人類学的な観察を丁寧に検討していくことによって、いまいちど、イマジナリーな営みの価値を掬い出していく、という切り口はとても興味深いなぁ、と(奥野克己「ポスト真実の時代、現実とフィクションの人類学」)。ここのところ、文芸誌なんて全く読んでなかったわけですが、それぞれの論考が、それぞれに現在の社会状況の深いところとアクチュアルに共鳴しているのがわかり、とても素晴らしい特集だと思った。勉強になってます。(こだか)